【時代旅】~弥生時代編②~三殿台遺跡
こんにちは!
今回の旅行先は神奈川県横浜市磯子区岡村にある、三殿台遺跡(さんとのだいいせき)です!
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/
1.今回の降車駅(地下鉄ブルーライン弘明寺駅)2.三殿台遺跡概要 3.三殿台遺跡の発見 4.三殿台遺跡は三度付け(縄文・弥生・古墳) 5.ゆずっこの聖地三殿台6.今回のグルメ(とんかつ美とんさくらい岡村店)
の順にまとめます。
さて、三殿台遺跡へは、地下鉄ブルーライン横浜駅から電車で14分、弘明寺(ぐみょうじ)駅で降ります。弘明寺は奈良時代に行基が建立、鎌倉時代に空海も発展に寄与しています。鎌倉~江戸時代の時の権力者との強いパイプがあり、坂東三十三観音にも数えられる程の由緒ある寺院とのこと。とても興味深い場所ですが、これはまた別の機会に。
2.三殿台遺跡
弘明寺駅からタクシーで10分ほどのところに、三殿台遺跡があります。この三殿台遺跡、徒歩でも30分ほどで行けますが、標高55メートルの場所にあるので、行かれる際はちょっとしたハイキングのつもりで行ってください。笑 バスからの場合は、JR根岸線根岸駅からバスで15分ほどかけて天神前バス停で降車すれば、徒歩10分ほどで到着します。
入口から入っていくと、公園のような広場にいきなり遺跡の遺構群が姿を現します。
保護棟の中は、発掘当時の遺構がむき出しのまま保存されています。中には入れませんが、吉野ケ里遺跡の記事で紹介した北墳丘墓を彷彿とさせるスケール!発掘当時の様子がしっかり残されています。
また、窓にはパテが塗りこんであり、雨や風などによる風化を防止しています。また、定期的に業者さんが中に入ってカビ等が発生しないよう、保護するためのメンテナンスを行っているとのことです。
さらに奥に進むと、竪穴式住居が3軒復元されています。縄文・弥生・古墳時代の遺構が見つかっているため、それぞれの特徴を比較できるよう、対比しながら見学すると面白いです!!
4.三殿台遺跡の発見
三殿台遺跡は明治30年代にイノシシの牙でできた勾玉を医者が発見したことが発端です。他にも土器なども多数出土していたことから、それなりの規模の遺跡があるであろうことは認識されていたようです。昭和36年に隣接する岡村小学校の高地拡張予定地となったことがきっかけで、遺跡全体の本格的な発掘調査が行われました。
すると、驚くことに、縄文時代から弥生時代を経て古墳時代までの、3つの時代の竪穴式住居の遺構が複雑に重なり合うようにして、270件も発見されました!縄文後期に断絶があったとみられていますが、紀元前2500年~紀元後500年の約3000年間もの間、人々が暮らしていたことになります。
前回の記事で紹介した吉野ケ里遺跡は約583,000㎡の中に竪穴式住居跡は450件、これと比較すると三殿台遺跡の竪穴住居は約10,000㎡に約270件、吉野ケ里遺跡の約35倍の密度!この三殿台遺跡が、如何に考古学的に貴重な場所であるかが分かると思います。
4.三殿台遺跡は三度付け(縄文・弥生・古墳)
当ブログでは今年(2020年)は、弥生時代についてメインに記述していますが、三殿台遺跡の魅力は何といっても、縄文・弥生・古墳に渡る非常に豊富な考古資料が見ることができること!今回は、“一度来て三度おいしい三殿台”(話:横浜市三殿台考古館館長)で実際に展示されている出土品を、3時代に分けて紹介します。
・縄文時代
三殿台には約4,500年前から人が住み始めたとのことです。当時の食生活は、狩猟・漁撈・網漁・採集など身の回りにある自然だけで賄う小規模なムラでした。
当時は氷河期が終わり、温暖化が進んだことで南極・北極の氷が溶けだし、現在よりも海水面が5~6m高いところまで上昇する、「縄文海進」が起こりました。このことは、貝などの海産物の採集を容易にし、居住地域は水はけがよく水害に遭いにくい高台に集まるという、縄文ライフを生み出したと考えられています。そう考えると、高台になりつつも海に囲まれた半島地形にある、三殿台遺跡のロケーションは当時ではさぞや一等地だったことでしょう!
・弥生時代
当ブログの今年のテーマは弥生時代ですので、やはりこの時代を紹介しないわけにはいきません!
三殿台遺跡には稲作や金属器など弥生時代の生活を示唆する品々も多く出土しています。村の規模も大きくなり、この一帯では中心的な村だったのでは、と考えられています。
また、興味深く感じたこととしては、三殿台遺跡には環濠の跡が見られないということです。前回の記事でも触れましたが、弥生時代は戦が多かった時代なので、多くの遺跡で環濠跡が見つかっています。吉野ケ里遺跡を訪れた際には、非常に大規模な環濠跡を目にしました。三殿台遺跡にはこの環濠跡が見つからないことがとても意外に感じます。これはあくまで個人的な推測ですが、もしかしたら、三殿台遺跡はその急な台地や、当時の海に囲まれるような半島的な地形のために、特別な防御施設が必要なかったのかもしれません。或いは、この地域が戦のないとても平和な土地だったのかもしれません。
弥生時代は何といっても稲作の普及です。やはり三殿台遺跡も、石包丁や、土器についた米の痕跡など、米を食料としていた痕跡が色濃く残されています。一方で水田の跡がないので、三殿台から降りて近場の平地で稲作業を行っていたのでは、と想像されています。
・古墳時代
古墳時代になると竪穴式住居の奥に粘土でできたかまどが作られるようになります。土器の形もかまどでの調理を前提とした縦長の形をしているものが多いです。また鉄器もより精密な加工が施されており、農業や食生活において著しい発展を見て取ることができます。
5.ゆずっこの聖地、三殿台
三殿台遺跡はJ-POPミュージシャンの”ゆず”の聖地としてしられています。その理由は、この遺跡の発見・発掘に深い関わりのある岡村小学校が、”ゆず”のふたり北川悠仁と岩沢厚治の母校だからです。三殿台遺跡にも来たことがあるそうで、サインと写真が飾ってあります。また、ゆずの5thアルバム『すみれ』のブックレットにはこの2人が三殿台遺跡で撮影した写真もあります。
6.今回のグルメ(とんかつ美とんさくらい岡村店)
今回のグルメは、三殿台遺跡にお伺いした際に考古館の館長様からご紹介いただいた、とんかつ美とんさくらい 岡村店で昼食をとることにしました!!!
三殿台遺跡から、岡村小学校の前を通り10分ほど坂を下っていくと、そのとんかつ屋さんは見えてきます。個性的な店構えは、店長のこだわりの技がキレまくっているお店の予感!
入ってみると、そこかしこにサインサインまたサイン!有名なミュージシャンや声優さん、スポーツ選手に芸能人、、、間違いなく、超有名店!!
早速、看板メニューの釜焼きロースかつ定食の“中”を注文します。(1440円 2020年1月現在)
さぁ、じっくり味わうぞ!と、とんかつにかぶりつきます!その瞬間、畳み掛けるような美味しさに感動しました!
第一の衝撃は衣!未だかつてないほどサクサクの衣!釜焼きなのでピザ生地を思い出すようなこんがりとした香ばしい風味!
第二の衝撃は、衣とお肉の間の空洞!よくあるとんかつは衣とお肉がコッテリな肉脂でくっついているのですが、このとんかつはそれが無いので意表を突かれます。
第三の衝撃は、ジューシーなお肉!と言ってはもはや月並みな表現なのですが、第二の衝撃で意表を突かれた直後に来る、石窯の高温で余分な脂をしっかり落として焼かれた、お肉の純粋な香りに完全にノックアウトされました。( ;∀;)
このとんかつを、これまたこだわりの2種類のソースとお塩で味を変えながら、じっくり堪能させていただくことができます。
そして、ここで、本当に幸運にも、さくらいさんの店長、堀内強美さんに様々なお話を伺うことができました。
宮崎県ご出身で、18歳の時に食肉店に入社され、25、6歳でとんかつさくらい店を開業されます。48ー51歳の歳に、オランダ国際食肉加工品コンテストでポークジャーキーや生ハムなど数々の分野で金賞を受賞されています。
そんな中、さくらい店の常連だったあるミュージシャンが、病気で脂が取れないため
とんかつが食べられなくなってしまったと聞いて、石窯の高温で焼くことで肉の脂を落しつつ、肉の旨味を引き出す調理上を考案されました。それが「釜焼きとんかつ」の始まりだそうです。
また、小学校で卵アレルギーでとんかつが食べられない子がいると聞くと、衣作りに欠かせないバッター液に、卵の代わりに、えのきを使用するという画期的な調理法を考案されました。この、えのきを使用したバッター液は、堀内さんがガンで余命宣告を受けて入院している最中に偶然読んだ、きのこの本から着想されたとの事です。それまで失意の最中にいた堀内さんですが、こんな所で死ねない、まだやるべき事がある!と再び立ち上がり、なんとガンも克服、えのきを使用したバッター液を作り上げ、特許ももうすぐ取得できるとの事です。
私が、「10年かけて、日本中旅しながら、日本の歴史を辿るブログをつくりたい」という話をしたら、堀内さんは、「それは素晴らしいことです。私も10年食肉について学んで一流になれたと思っています。あなたも10年間続ければ、きっと実を結んで新しい世界が見えるでしょう。」と仰ってくださいました。その道の一流の職人の方が、私のような駆け出しのブロガーにこんな言葉をかけてくださること自体、本当に感動的でうれしいことでした。泣
堀内さんは、横浜市の市民の生活・文化に寄与する優れた技能職者として「横浜マイスター」に認定されています!詳細は下記のリンクから見れます!
また、とんかつ美とんさくらいさんの美豚浜ジャーキーが、”横浜が選んだ横浜ブランド、横浜001”に選ばれており、楽天市場からも手に入ります!
↓のリンクからチェックしてみてください!
最後に、このような、駆け出しの若輩ブロガーに、とても親切にご案内いただき、温かくアドバイスいただきました、三殿台遺跡、とんかつ美とんさくらいの皆様のおかげで、想い出に残る素敵な旅になりました。改めて感謝の言葉を述べさせていただき、今回の記事の締めとさせていただきたいと思います。
余談:その時世界では
三殿台遺跡の縄文期(紀元前2000年前後)、小アジア(現在のトルコ)に鉄器の技術を持ったヒッタイト王国が一大強国を築き、中東でエジプトと凌ぎを削っていました。この鉄器の技術がユーラシアを横断して、弥生時代後期(紀元前200頃)年前後に日本に到達することになります。
三殿台遺跡の弥生期(0世紀前後)には、最盛期を迎えつつあったローマ帝国の、支配下にあったエルサレムで、イエスが処刑され、キリスト教の発祥となりました。
三殿台遺跡の古墳期(5世紀前後)には、中国の三国時代を統一した晋王朝が、統一後僅か50年で、北方民族の侵入を受けて南に逃れ、130年にも及ぶ中国史上屈指の混迷の時代、南北朝(五胡十六国)時代の幕開けとなりました。ヨーロッパでもゲルマン民族大移動で衰退したローマ帝国が東西に分裂。程なくして西ローマ帝国は滅亡。この様に世界史としては非常に荒れた時代となっていました。