歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【商人旅】神戸の街の「和と洋」・「古きと新しき」が交わる場所、相楽園

今回は、神戸市民から100年以上もの間親しまれ続け、神戸市の歴史と発展を見守り続けてきた歴史ある日本庭園、相楽園を取り上げたいと思います。

 皆様は、神戸の街にどのようなイメージをお持ちでしょうか?ファッション、異人館、お洒落なカフェや雑貨屋さんetc…  実は、この相楽園を造営した小寺泰次郎(こでらたいじろう)は、この関西を代表するオシャレの街、神戸市の発展に大きく貢献した重要人物なのです!そんな小寺泰次郎と、彼と共に神戸の街の発展を見守ってきた相楽園の歴史を紹介いたします!

f:id:Inagazy:20210716212719j:plain

出典:相楽園HP。約20,000㎡の広大な庭園は、池泉回遊式という池の周りを一周しながら景色を楽しむように設計された庭園です。小寺家の家紋が入った風格ある正門や、飛び石や石橋 滝石組みなどの意匠、他に蘇鉄(ソテツ)園やツツジの 名所としても有名です。特に蘇鉄は鹿児島県より寄贈された名木があり、私の祖父が鹿児島出身である事からも、浅からぬご縁を 感じます!!

 

①小寺家のルーツ

 相楽園は、小寺泰治郎氏の邸宅として、1885年(明治18年)頃に造営されました。小寺家は、戦後最初の神戸市長である小寺謙吉(泰次郎の子)を輩出するなど、神戸を代表する名士でしたが、元は三田藩(現在の兵庫県三田市)の藩主であった九鬼(くき)家に仕えた下級武士の家でした。

九鬼家といえば、戦国時代に織田信長の元でその名を轟かせた強力な九鬼水軍で有名ですが、江戸時代に入っても、幕府の礼式を取り仕切る要職として外様大名としては特別な地位にいました。

 

f:id:Inagazy:20210716213700j:plain

▲出典:長崎大学付属図書館。(http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/jp/record.php?id=52)明治20年ごろの神戸の写真。 左中ほどの塀で囲まれた屋敷が小寺安治郎邸(現在の相楽園)。 奥に開港したばかりの神戸の港と船が見える。

②小寺泰次郎の活躍

  そして時は幕末、日本中が尊王攘夷と開国佐幕に思想が二分していた激動の時代でした。その中にあって、最後の三田藩主である九鬼隆義(くきたかよし)は、三田藩の軍備の西欧化など、近代化を断行しました。この時に、下級藩士の身分から取り立てられ活躍した人物が2人いました。そのうち1人が白州退蔵(しらすたいぞう)、そしてもう1人が小寺泰次郎だったのです。

f:id:Inagazy:20210716213543p:plain

▲出典:NPO法人歴史文化財ネットワークさんだ。左から九鬼隆義、白洲退蔵、小寺泰次郎。志摩三商会設立のこの3人は神戸の街の発展に大きく貢献した。因みに、白洲退蔵は終戦直後の日本の大政治家、白洲次郎の祖父にあたる。

 明治に入ると、九鬼隆義・白洲退蔵・小寺泰次郎は、困窮する旧三田藩の武士を救うために、「志摩三商会」という貿易会社を神戸で設立。食料品・雑貨・薬などの貿易で成功を収めました。

 志摩三商会の成功や、不動産・金融業で一躍大富豪となった小寺泰次郎は、その資金を元手に、予てから国際港としての素質を見出していた神戸の発展に多額の投資を行いました。現在の元町・三ノ宮の都市開発神戸女学院の前身である女子寄宿学校の設立にも関わっています。小寺泰次郎はこの相楽園の地から、現在に至る神戸の街の発展を見据えていたことでしょう。

 

③その後の相楽園

 さて、その後の相楽園は、1941年に小寺家から神戸市に引き渡され、中国の古書「易経」の一節「和悦相楽(和して悦び相楽しむ)」から引用して相楽園命名され、市営公園として一般公開されることになりました。1945年の神戸大空襲により被害を受けましたが、旧小寺家厩舎(国の重要文化財灯篭や門・塀などが遺り、貴重な文化遺産として神戸の歴史の1ページを現在に伝えています。

その文化的価値から、日本の文化財保護法に基づく登録記念物として、最初の登録物件となりました。

f:id:Inagazy:20210716214629p:plain

出典:相楽園HP。(https://www.the-sorakuen.jp)現在の相楽園の上空からの写真。四季折々の美しさを楽しむことができます!

 戦後、神戸市の迎賓館として旧相楽園会館が1963年に完成し、55年間にわたり人々の交流の場として親しまれてきました。そして、2018年、より広くたくさんの人々にその魅力を発信するために、旧相楽園会館を活用する企業コンペが行われ、旧相楽園会館は、ウエディングやイベント、レストランやカフェとして利用される、THE SORAKUENとして生まれ変わることになりました。

f:id:Inagazy:20210729231622p:plain

▲相楽園HP。THE SORAKUEN(旧相楽園会館)。1963年から55年間、人々の交流の場であった 旧相楽園会館をリノベーションし、2018年にTHE SORAKUENとして生まれ変わりました。和洋折衷の内装と、庭園とハッサム邸を背景に取り入れ、異国情緒の光が差し込むチャペルやパーティ会場は、神戸の歴史を見守ってきた相楽園に相応しい雰囲気。カフェ「相楽園パーラー」やレストラン「相楽」では、地元の食材を活かした絶品スイーツや 西洋料理が味わえます!

f:id:Inagazy:20210729232104j:plain

▲出典:相楽園HP。船屋形。江戸時代に姫路藩主が領内視察や遊覧時に利用した、「川御座船」という軍船の上部構造を移築したもの。春慶塗りと黒漆塗りで塗り分ける総漆塗り、 また、金具には金箔が施されており、華やかに彩られています。明治時代に一度民家に移築され茶室として使用されていたそう。1980年に相楽園に移築 されました。国の重要文化財に指定されています。

f:id:Inagazy:20210729232301j:plain

▲出典:相楽園HP。旧ハッサム邸。1902年にインド系イギリス人の貿易商人、J.Kハッサムが北野町に建てた住宅です。神戸北野町の異人館の多くを手がけたA.ハンセルの設計と言われています。1961年に当時の所有者であった神戸回教寺院が、神戸市に寄贈し、1963年に相楽園に移築されたました。明治時代の異人館の建築様式を今に伝える貴重な資料として、国の重要文化財に指定されています。

f:id:Inagazy:20210729232456j:plain

▲出典:相楽園HP。旧小寺家厩舎。小寺家の馬の世話をするために建てられた厩舎です。明治〜大正にかけて活躍した、ドイツ風建築の第一人者 河合浩蔵の設計。小寺家が園内に建てた建築物の中で、神戸大空襲でも消失しなかった数少ない建物です。重厚かつ純度の高いドイツ風建築は、その文化的価値が 認められ、国の重要文化財に指定されています。

 相楽園を訪れてみて、併設の日本庭園や異人館と調和しつつ、和モダンでスタイリッシュな粧い、そして、カフェやレストランで味わうお料理も、”伝統tradition x 革新innovation”のコンセプトを美しく体現していると感じました。それが江戸までの日本の歴史と新たな西洋文化の融合を果たした大正ロマンのような雰囲気を醸し出していると感じます!!

 神戸の街の真ん中にありながら、暫し都会の喧騒や日常を忘れさせてくれるこの相楽園で、平和でロマン溢れるひと時を過ごしてみてはいかがでしょうか?!

 

余談:その時世界では

 小寺泰次郎によって、相楽園が造営され、神戸の街が発展を見せはじめていた19世紀後半、ヨーロッパはその繁栄が成熟期に差し掛かっていました。フランスでは、ゴッホゴーギャンセザンヌをはじめとしたフランスのポスト印象派の画家たちが活躍をし、リュミエール兄弟によって映画が発明されました。

個人的には、このようなヨーロッパの文化が成熟を表現している一方で、産業革命における貧富の差の拡大、帝国主義による領土拡張の限界、ナショナリズムの高揚や勢力均衡の世界情勢など閉塞感を孕んでいると感じます。この一見華やかな中に忍び寄る影のような寂しさを感じるのが、この時代の物悲しげな魅力であると感じます。

この19世紀後半には、戦争と動乱の20世紀の影も忍び寄ってきていました。ドイツでは首相のビスマルクが失脚。ビスマルク体制と言われ、ヨーロッパに安定と文化的成熟をもたらしていた勢力均衡状態が瓦解し始めます。また、アフリカにおける英仏の利権対立が頂点となったファショダ事件が発生しましたが、ここで勢力争いに折り合いをつけた両国は接近をし、急速に台頭するドイツへの警戒を強めていくことになります。