【商人旅】神戸の街の「和と洋」・「古きと新しき」が交わる場所、相楽園
今回は、神戸市民から100年以上もの間親しまれ続け、神戸市の歴史と発展を見守り続けてきた歴史ある日本庭園、相楽園を取り上げたいと思います。
皆様は、神戸の街にどのようなイメージをお持ちでしょうか?ファッション、異人館、お洒落なカフェや雑貨屋さんetc… 実は、この相楽園を造営した小寺泰次郎(こでらたいじろう)は、この関西を代表するオシャレの街、神戸市の発展に大きく貢献した重要人物なのです!そんな小寺泰次郎と、彼と共に神戸の街の発展を見守ってきた相楽園の歴史を紹介いたします!
①小寺家のルーツ
相楽園は、小寺泰治郎氏の邸宅として、1885年(明治18年)頃に造営されました。小寺家は、戦後最初の神戸市長である小寺謙吉(泰次郎の子)を輩出するなど、神戸を代表する名士でしたが、元は三田藩(現在の兵庫県三田市)の藩主であった九鬼(くき)家に仕えた下級武士の家でした。
九鬼家といえば、戦国時代に織田信長の元でその名を轟かせた強力な九鬼水軍で有名ですが、江戸時代に入っても、幕府の礼式を取り仕切る要職として外様大名としては特別な地位にいました。
②小寺泰次郎の活躍
そして時は幕末、日本中が尊王攘夷と開国佐幕に思想が二分していた激動の時代でした。その中にあって、最後の三田藩主である九鬼隆義(くきたかよし)は、三田藩の軍備の西欧化など、近代化を断行しました。この時に、下級藩士の身分から取り立てられ活躍した人物が2人いました。そのうち1人が白州退蔵(しらすたいぞう)、そしてもう1人が小寺泰次郎だったのです。
明治に入ると、九鬼隆義・白洲退蔵・小寺泰次郎は、困窮する旧三田藩の武士を救うために、「志摩三商会」という貿易会社を神戸で設立。食料品・雑貨・薬などの貿易で成功を収めました。
志摩三商会の成功や、不動産・金融業で一躍大富豪となった小寺泰次郎は、その資金を元手に、予てから国際港としての素質を見出していた神戸の発展に多額の投資を行いました。現在の元町・三ノ宮の都市開発、神戸女学院の前身である女子寄宿学校の設立にも関わっています。小寺泰次郎はこの相楽園の地から、現在に至る神戸の街の発展を見据えていたことでしょう。
③その後の相楽園
さて、その後の相楽園は、1941年に小寺家から神戸市に引き渡され、中国の古書「易経」の一節「和悦相楽(和して悦び相楽しむ)」から引用して相楽園と命名され、市営公園として一般公開されることになりました。1945年の神戸大空襲により被害を受けましたが、旧小寺家厩舎(国の重要文化財)や灯篭や門・塀などが遺り、貴重な文化遺産として神戸の歴史の1ページを現在に伝えています。
その文化的価値から、日本の文化財保護法に基づく登録記念物として、最初の登録物件となりました。
戦後、神戸市の迎賓館として旧相楽園会館が1963年に完成し、55年間にわたり人々の交流の場として親しまれてきました。そして、2018年、より広くたくさんの人々にその魅力を発信するために、旧相楽園会館を活用する企業コンペが行われ、旧相楽園会館は、ウエディングやイベント、レストランやカフェとして利用される、THE SORAKUENとして生まれ変わることになりました。
相楽園を訪れてみて、併設の日本庭園や異人館と調和しつつ、和モダンでスタイリッシュな粧い、そして、カフェやレストランで味わうお料理も、”伝統tradition x 革新innovation”のコンセプトを美しく体現していると感じました。それが江戸までの日本の歴史と新たな西洋文化の融合を果たした大正ロマンのような雰囲気を醸し出していると感じます!!
神戸の街の真ん中にありながら、暫し都会の喧騒や日常を忘れさせてくれるこの相楽園で、平和でロマン溢れるひと時を過ごしてみてはいかがでしょうか?!
余談:その時世界では
小寺泰次郎によって、相楽園が造営され、神戸の街が発展を見せはじめていた19世紀後半、ヨーロッパはその繁栄が成熟期に差し掛かっていました。フランスでは、ゴッホやゴーギャン、セザンヌをはじめとしたフランスのポスト印象派の画家たちが活躍をし、リュミエール兄弟によって映画が発明されました。
個人的には、このようなヨーロッパの文化が成熟を表現している一方で、産業革命における貧富の差の拡大、帝国主義による領土拡張の限界、ナショナリズムの高揚や勢力均衡の世界情勢など閉塞感を孕んでいると感じます。この一見華やかな中に忍び寄る影のような寂しさを感じるのが、この時代の物悲しげな魅力であると感じます。
この19世紀後半には、戦争と動乱の20世紀の影も忍び寄ってきていました。ドイツでは首相のビスマルクが失脚。ビスマルク体制と言われ、ヨーロッパに安定と文化的成熟をもたらしていた勢力均衡状態が瓦解し始めます。また、アフリカにおける英仏の利権対立が頂点となったファショダ事件が発生しましたが、ここで勢力争いに折り合いをつけた両国は接近をし、急速に台頭するドイツへの警戒を強めていくことになります。