【商人旅】〜会津商人篇④〜 会津の旅の足跡(後編)
今まで3回に渡って書いてきた会津若松編ですが、とうとう今回で最後になります!!
1.満田家で郷土料理
3日目は、朝から七日町通りにある満田屋さんに並んで、ブランチに郷土料理の味噌田楽をいただきました!この満田屋さんは、幕末(天保5年)創業の味噌専門店です。郷土料理のしんごろう餅や身かきにしん、里芋などに3種類の秘伝の味噌だれを塗り炭火で丁寧に焼かれた贅沢な田楽がいただけます。
2.飯盛山と白虎隊
①飯盛山の見どころ
朝のお腹が満たされたところで、飯盛山に向けてドライブしました。飯盛山はかの有名な、白虎隊が会津戦争で自刃した場所です。
近くの駐車場に車を止めると、地元の商魂逞しいおじ様おば様たちお土産の紹介を受けつつ(笑)売店街を抜け 、急峻な石段にたどり着きました。
山頂に登ると、白虎隊にまつわる記念碑や像を中心に幾つかの見所があります。
飯盛山のもう一つの名所として、さざえ堂があります。正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)と言います。上りと下りの道が別れていて、参拝者たちがすれ違うことがないような珍しい設計がされています。
②白虎隊の悲劇
ここで、白虎隊の悲劇が起きた経緯を簡単に説明します。幕末の動乱期、江戸幕府は江戸城の開城を以って実質的に滅亡し、代わって明治政府が樹立しました。しかし、北越・東北地方を中心に旧幕府側の勢力が奥羽越列藩同盟(おおうえつれっぱんどうめい)を結成し、明治政府との戦いを継続していました。会津戦争はこの東北地方の戦いでの一局面となります。
会津軍は新政府軍に対し、当初から軍備も物量も大きく差を開けられており、終始、圧倒的不利な戦いを強いられました。白虎隊の悲劇が起きる少し前、この時の主な会津藩の戦線は、越後口(新潟方面)・日光口(栃木方面)・石筵口(福島県東部)でした。このうち石筵(いしむしろ)口には、大鳥圭介の伝習隊や土方歳三の新撰組といった精鋭を配置するも、板垣退助率いる9倍近い新政府軍相手に敵わず僅か1日で敗走する結果となりました。
この敗戦は、会津藩にとっては想定外に早すぎるもので、何とかして新政府軍を足止としようとしますが、その勢いの前になす術もなく負け続けてしまいます。そんな状況の中、会津軍は明治政府軍に一矢報いるべく、戸ノ口原で防御陣地を築いて最後の防衛戦を狙いました。
白虎隊は、16・17歳の武家の少年兵で構成され、本来は予備戦力としての位置付けの部隊でしたが、このような絶望的な状況で戸野口原の戦闘に参加することになりました。当然ながら戦局の挽回からは程遠く、懸命に戦うも壊滅し飯盛山に逃げ込みます。もはや、彼らの最後の希望は、主君である松平容保が守る会津若松城での戦いでした。
飯盛山で起きた白虎隊の悲劇とは、この戦いで飯盛山に逃げ延びた白虎隊の隊員が、山頂から煙の登る会津若松城を見て、会津の運命ももはやこれまでとこの飯盛山で自刃する道を選んだ出来事でした。
江戸時代では、もう元服を済ませた侍とはいえ、まだあどけなさが残っていたであろう彼らの悲劇を思うと、胸に苦しく響くものがあります。時代や社会、大人たちの利害に翻弄されながらも、必死に生き、散っていった彼らの姿を忘れずにいることは、時代の変わり目における大人達の意地や利害や信念のために、後に続く世代を犠牲にしてはいけないという教訓として大切にしなければいけないと思います。
時代を進めるにも止めるにも、その目的とは、自分たちの世代だけではなく後世に財産を伝えるためでなくてはいけないと思います。私もブログを書くにあたり、いつの日かそういった歴史の遺産を語り継ぐことができるような、そんなクオリティのある記事を書けるようになりたいと願います。
3.御薬園
次に、会津三名園に数えられる有名な日本庭園の一つ、御薬園に向かいました。
御薬園は、病を患った病人にこの地にあった泉の水を与え治癒させた伝説がつたえられており、蘆名氏が15世紀に入り神聖な土地として別荘を建てたことが始まりです。
その後戦国の乱世の中廃れていた時期がありましたが、江戸時代に入り初代藩主保科正之が再建しました。2代藩主正経・3代藩主正容の時代に農民を疫病から救いたいという思いから薬草園が整備され、藩主導で薬の研究が行われました。
この御薬園は、蘆名家に遡る会津の歴史を土台に、会津松平家の理念とも言える領民の生活安定の願いが表現された、重要な場所でもあると言えるでしょう。
この薬草園で、正容の時代に導入された朝鮮人参は、薬草としての効能もさることながら、約120年後に起きる天明の飢饉で大打撃を受けた藩財政を立て直す財源として、以前の記事にも取り上げた、名家老の田中玄宰(たなかはるなか)が着目し官民一体で藩の特産物として育成されました。
この御薬園は、会津戦争においては新政府軍に接収され診療所となったため戦火を逃れました。戦後長尾和俊に代表される会津の豪商たちが私財を投げ打って新政府から買い戻し、松平家に献上されました。明治時代に松平容保も一時期この場所で過ごしたと伝わっています。大正ロマンの代表的な歌人、与謝野晶子も訪れたそうです。
続いて、会津を代表する会津塗の老舗、白木屋漆器店さんへ。その起源は17世紀中頃に、加藤氏の時代に会津に来て、木綿を扱う商人だったとのこと。
18世紀に入り漆器業を手がけ、江戸だけではなく上方にまで販路を広げました。17世紀初頭に保科正之が行なった殖産興業政策とも関係あるのではと思えます!戊辰戦争の戦火の中も生き延び、明治に入ると会津塗の復興に尽力され、有名なパリ万博にも出店されたとのことです。お店をお伺いすると、今尚受け継がれる伝統的な会津塗の品々と多くの展示資料があり、現在でも会津塗の普及に貢献されています。僭越ながらこれぞ老舗の名店!と申し上げたくなるような風格を備えていると思いました!
白木屋漆器店の素敵な商品の数々はこちらのリンクに掲載されています。
また、建物の詳細情報は、こちらのリンク参照ください。
5.渋川問屋
最後に、会津の旅のフィナーレとして、会津若松の郷土料理の専門店、渋川問屋でディナーをいただくことにしました!!
渋川問屋は、会津若松のメインストリート、七日町通りに明治時代に、北前船から運び込まれる海産物を干物にして会津の食卓に提供する海産物問屋として繁盛したそうで、ニシンの干物の東日本の相場に強い影響を持っていたそうです。
会津随一の海鮮物問屋として繁栄しましたが、昭和には一家の長男であった渋川善助が二・二六事件に連座するなど、激動の時代に巻き込まれました。現在は、旅館と懐石料理のお店として会津でも人気スポットなっていますが、日本の各社社会を憂いた善助の育った部屋は、「憂国の間」として今も残されており、松本清張や三島由紀夫も訪れているそう。(詳細はこちらのリンクをご参照ください。)
今回は、宿泊はできませんでしたが、会津での最後のディナーということで、コースメニュー(会津会席膳)を注文しました!!伝統的なお料理に舌鼓を打ちつつ、明治・大正の姿のまま保存されたレトロな建築空間が、旅情を誘う素敵なひと時を過ごしました!
6.最後に
これでとうとう、会津の旅の記事が終わりになります!本当はもっと行きたかった場所や書きたかった場所がたくさんあるのですが、今回の記事は一旦ここまでとし、きっといつの日か会津の地を改めて訪れる際の楽しみにしたいと思います。
会津を旅する中で、激動の時代にあって信念を貫いたことに対する先人達への誇りがあり、それを大事にすることで育まれた歴史や文化は、掛け替えのない財産となっていると感じました。
これはあくまで個人的な意見ですが、世界史と日本史の大きな違いの一つは、世界史は勝者の歴史である一方、日本史は敗者の歴史も等しく慈しむ所にあると思います。アジアやヨーロッパの歴史に於いては、前の支配者の築いた財産を、後の支配者が徹底的に破棄することが散見されますが、日本においては源平合戦や戊辰戦争に代表されるように、勝者・敗者両方の歴史を大切にする傾向があり、そうすることで育まれた日本の歴史はとても濃密で、深みのある物語になっていると思います。
昨今、SDG‘sの重要性が語られることが多いですが、様々な町・人・製品に対して、歴史は付加価値をつけてくれる効果があると思っています。この付加価値は、資源を消費したり廃棄物を出すことなく生み出すことができ、非常に“SDG‘sな“価値の生み出し方だと言えます。
先述したとおり、日本には勝者も敗者も分け隔てなく愛情を向ける文化があり、それにより育まれた歴史や文化には他国に負けない特別な価値があると思います。私もこのブログを書く中で、少しでもそういった歴史の楽しさ、美しさ、魅力を伝えることができればと気持ちを新たにした、そんな旅となりました。
余談:その時世界では
御薬園が、会津3代目藩主松平正容によって造園された17世紀末、北欧では北方同盟が結ばれました。当時バルト海沿岸の全域を支配下に置き、バルト帝国と呼ばれるほどの圧倒的な勢力を誇っていたスウェーデンに対し、ロシア・ポーランド・デンマークが同盟を結び、1700年から約20年に渡り繰り広げられる大北方戦争のきっかけとなります。
「北方の流星王」の異名を取るスウェーデン王カール12世は、序盤こそ素早い機動戦で先手を取りデンマーク・ポーランドを屈服させるものの、ポルタヴァの戦いで好敵手と評されるロシアのピョートル大帝に敗れた後は勢いを失い、台頭著しいプロイセンにも参戦されるなど、最終的には敗戦という結果に終わります。結果、ロシアが東欧・北欧に於ける覇権国の地位を確立。この地位と東ローマ帝国皇帝家との血縁と共に、ロシア王家は名実ともに「皇帝」の称号を得て、ロシア帝国が成立することとなりました。
ロシア帝国は、この頃までに既に太平洋側までその国土を拡大させていましたが、当時絶頂期にあった清朝とのネルチンスク条約(1689年)においてアジアでの不凍港の獲得の失敗という結果になりました。この事と、先述の北方大戦争におけるヨーロッパでの成功から、ロシア帝国の不凍港の獲得を目指した南下政策の矛先は、スウェーデンという旧覇権国を打破したヨーロッパ方面、第二次ウィーン包囲に失敗し衰退期に入っていたオスマン帝国との抗争に向かうことになります。
これらの情勢は、日本とロシア帝国の接触を150年近く遠ざけることになります。再びロシア帝国がアジアに南下政策の矛先を向けるのは、清朝が衰退期に向かう19世紀の中頃。アイグン条約(1868年)・北京条約(1870年)によって念願の不凍港であるウラジオストクを獲得します。日本では戊辰戦争の最中にあり、アイグン条約が結ばれた丁度その頃、会津戦争に向けて着々と明治政府軍が進軍している最中のことでした。