歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【青森・函館旅行日記 1日目】青森市編①

ご無沙汰しております!!

手前味噌ではございますが、青森・函館に新婚旅行に行って参りましたので、その時の旅路を辿りながら記事を書いてみたいと思います!

本記事では、最初に行った町である青森市について書いていこうと思います。まずは、青森市の歴史から始めますので、旅行記から読まれたい方は、次回の記事へとお進みください!

 

1.古代の青森市

三内丸山遺跡

 青森市の歴史は縄文時代に遡ります。有名な三内丸山遺跡は、国の特別指定史跡、また2021年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に指定されました。三内丸山遺跡は、縄文時代中期(約5900年前〜4200年前)に営まれた集落跡です。詳細は、5回目の記事に記載させていただければと思いますが、長期間にわたる暮らしの記録は、縄文時代の様子を知る上で貴重な価値を持つ、学術的に非常に重要な遺跡です

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三内丸山遺跡

奥州藤原氏の台頭

 平安時代に於いては、東北で起こった安倍氏清原氏大和朝廷の三つ巴の大乱である前九年の役後三年の役を経て、奥州藤原氏が中央の政治には属さない独自の勢力を築きました。


2.中世の青森市

鎌倉幕府(北条氏)の支配と崩壊

 鎌倉時代に入ると、奥州藤原氏を滅亡させた鎌倉幕府北条氏が奥州の大半を抑えることとなります。また、2代目執権北条義時は、安倍氏の末裔にあたる安藤氏(後の安東氏)を通して、奥州の統治にあたったようです。

しかし、鎌倉時代末期になると、勢力を拡大した安藤氏の内紛と、それにアイヌの反乱が重なった紛争(安藤氏の乱)を幕府は鎮圧することができず、元寇と並んで鎌倉幕府は衰退のきっかけとなった事件と言われています。

 

②浪岡北畠氏

室町時代になりこの地の支配者となったのは、浪岡北畠(なみおかきたばたけ)氏です。元々北畠氏は村上源氏の庶流で京都で活躍する貴族の家系でした。なぜ、北畠氏が奥州に勢力を築くことになったのか。その経緯をお話しするために、浪岡北畠氏の祖と言われる、南北朝時代南朝側の若き名将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)について、少し紹介したいと思います。

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北畠顕家 Wikipediaより引用。政戦両略の名将にして美少年だったとのこと。


南北朝時代のスター北畠顕家 

 北畠顕家は、鎌倉時代末期に、村上源氏の流れを汲む公家の名門である北畠家に生まれました。この出自だけでなく、才覚にも恵まれていたため、若くして朝廷の重要な官職を歴任し、14歳という史上最年少の年齢で参議に抜擢されました。舞にも才能があったらしく、「花将軍」の異名もあったそうです。


④“花将軍“奥州へ

 後醍醐天皇の覚えもめでたく、建武の新政において奥州の支配を任されることになります。当時若干15歳という若さ、しかも公家の出身にもかかわらず、武人としての才能も申し分なく、東北地方に根強かった北条氏の残党を見事鎮圧しました。また優れた統治手腕を発揮し、東北の武士達を配下に収めます。これが、北畠氏が奥州に根を下ろすことになったきっかけとなった出来事です。

因みに、この時従えていた重臣に、南部師行や結城宗広、伊達行朝といった、後の東北の戦国時代に名を馳せる大名家の祖先もいました。

 

南北朝の騒乱と鬼神の如き活躍

 南北朝の動乱が始まると顕家は、新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)に並ぶ南朝側の名将として大活躍します。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が京都を占領した際には、東北から5万の兵力を率いて出陣しました。

この時の勢いが日本史上類を見ない凄まじさで、鎌倉で足利尊氏の息子足利義詮(よしあきら)を破り、間髪入れずに京都に進軍。新田義貞楠木正成と連携して足利尊氏を破る快進撃を見せました。その勢いを前に足利尊氏は九州へと逃れざるを得ませんでした。

北畠顕家はこの間、足利家の諸将を打ち破りながら1日約50kmも進んだという記録が残っており、日本史上類を見ない規模と速度の行軍(比較として、本能寺の変に際し豊臣秀吉が行った中国大返しは1日約20km)として、名将としての名声を不動のものにしました。

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北畠顕家の最期  

その後、多々良浜の戦い(現在の福岡市)に勝利し、九州で体制を立て直した足利尊氏が再び京都に巻き返して来ると、またしても軍を率いて京都に駆けつけます。しかし、その前に楠木正成は戦死、また新田義貞との連携が阻止され、孤立してしまいます。河内地方で孤軍奮闘するも力つき、堺で起きた石津の戦いで20歳の若さで討ち死にしてしまいました。

若くして文武に華々しい活躍を見せた北畠顕家は、日本史上屈指の名将と言っても差し支えないでしょう。顕家亡き後も、全国で各勢力が南朝側・北朝側に分かれて、50年以上もの間戦い続けることとなります。

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▲明治に入り、顕家の後醍醐天皇に対する忠誠が再評価され、阿倍野神社に父親房と共に祀られている。

 

⑦室町・戦国の青森市

 その後、東北本国の浪岡北畠氏は、南北朝の騒乱の中で勢力を衰退させながらも、津軽に浪岡城(青森市浪岡)を築城し、南部氏や安東氏など有力大名との關係によりその後も存続しました。天皇家に連なる名門公家の出身の家柄であることから、京都との繋がり強く、浪岡には貴族文化が入り「北の御所」と呼ばれました。このように、権威的存在として、戦国時代を通して津軽地方を中心に特別な地位を保ちました。これが浪岡北畠氏の誕生の経緯です。

 しかし、戦国末期に、下剋上によって南部家からの独立を果たした津軽為信(つがるためのぶ)によって、ついに滅ぼされてしまうことになります。そして、この南部氏と津軽氏の関係が、後の青森港の誕生に大きく関係してくることになるのです。

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津軽為信像(弘前公園HPから引用)

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▲戦国末期の南部家と独立を果たした津軽氏の領域。


3.近世の青森市

 江戸時代においては、青森市弘前藩の一都市として、津軽氏の治めるところとなります。そして、2代目藩主津軽信枚(つがるのぶひら)の代には、森山弥七郎(もりやまやしちろう)に命じて、江戸に津軽米を輸送する拠点として青森に港町が整備されることとなります。

 この事業にはもう一つの狙いがありました。それはこの地域にもともとあった油川湊(現青森市油川)の権益を奪うことにありました。既述の通り、そもそも津軽藩の成り立ちは、初代津軽為信が主君である南部氏の内紛に乗じて反旗を翻し独立したという経緯があります。この地域の港町である油川には、南部時代からの商人達が多く、なかなか津軽家に従わなかったと言われています。

 その対策として、新たに青森湊を建設し津軽家主導の元運営されることとなりました。この青森湊の完成以降、青森は酒田(秋田藩)〜江戸を結ぶ東廻り航路に参入し津軽米を江戸に運ぶ重要な役割を担い繁栄します。

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▲江戸時代の商業を発展させた海上交易路

 水の文化センター様HPより。https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no01/02.html


4.近代の青森市

 さて、幕末に浦賀・横浜にやってきた黒船は、泰平の世を謳歌していた日本に外国の脅威が迫っている現実を突きつけました。そしてそのことは、函館戦争を経験した明治政府に、北海道の防備と開拓を進めることと同時に、青森の北海道への中継港としての重要性を再認識させることとなります。これが、青森市が当時弘前県の県庁所在地として認められる要因になったと言われています。

 明治以降の魚介類の輸入東北・奥羽本線青函連絡船の開通は、さらに青森港を発展させることとなりました。1988年の青函トンネル開通を機に青函連絡船は運行終了となったものの、北海道との車両輸送、LPGや石油の輸入など現在も重要な役割を担っています

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青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸。(4回目の記事に書きたいと思います。)

 

以上まで、青森市の歴史をところどころ脱線しつつ(笑)、書かせていただきました!青森市の地理的・歴史的な重要性や魅力を、少しでもお伝えすることができたのなら、大変嬉しいです。

次回の記事では、実際に自分の足で歩いた青森市の思い出について、旅行記を書きたいと思います!乞うご期待!