歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【商人旅】〜会津商人篇②〜 蒲生氏郷と保科正之、そして藤樹学

随分と時間が開いてしまいましたが、いよいよ会津若松についての記事に入ります!調べれば調べるほど、会津の歴史は興味深く、ついつい記事が長くなってしまったので、会津篇は、2回に分けて、下記の流れで追っていきたいと思います。

 

今回記事

1.戦国から江戸時代への橋渡しをした、蒲生氏郷(がもううじさと)

2.会津松平家225年間を支える屋台骨を立てた、保科正之(ほしなまさゆき)

3.江戸時代後期の会津藩会津商人

4.明治維新後〜今に遺る会津商人の足跡

 

次回以降(会津の旅の足跡(前編)会津の旅の足跡(後編))

会津の商人・歴史スポット記録

会津のグルメスポット記録

 

1.戦国から江戸時代への橋渡しをした、蒲生氏郷(がもううじさと)

 会津藩の歴史を語る上で、豊臣天下の時代に会津を治めた蒲生氏郷の治世から話を始めたいと思います。

蒲生氏郷は、戦国末期の近江日野出身で、最初は六角氏に仕えていましたが、父が近江を攻略した織田信長に降り、氏郷は人質として信長の側に付き従うことになります。当時から、文武ともに並々ならぬ才覚を見せていたようで、織田家中の次世代を担う逸材として期待されていたようです。

氏郷は織田信長の元で政治手腕を学んだと思われます。後に氏郷35歳の時、天下を統一した豊臣秀吉の命により、会津の地を治めた際の鮮やかな政治手腕は、安土城を築くことでその威光を天下に知らしめ、楽市楽座を奨励し経済の活性化を目指した織田信長のそれと非常に似ていると感じます。氏郷は、40歳の若さでこの世を去ることになりますが、僅か5年の会津での治世の間に行なった政策は、現在の会津若松の基礎を築いたものとして、非常に高い評価を受けています。

では、そんな蒲生氏郷の統治を、会津商人の関係にも触れながら、纏めたいと思います。

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蒲生氏郷肖像画(引用:Wikipedia

 

鶴ヶ城の大改築

 蒲生氏郷は、秀吉の命を受けて会津に着任してから僅か1年余りの間に、かつての蘆名氏時代の姿のまま受け継がれていた黒川城の大改築を行います。ここに姿を現したのは、7層の天守を持つ本格的な近世城郭で、蒲生家の家紋に因んで鶴ヶ城と改名されました。また、地名もそれまでの“黒川”から、氏郷の郷里に因んで、“若松”に変えました。

 天守閣を持つ城は、戦国末期からの主流となりつつあった城の形態で、軍事よりもシンボルとして求心力を高める政治的な目的が強いとされています。会津の地に、「我こそは新たな支配者である!」と宣言することで、リーダーシップを発揮する下地を整えたのです。

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蘆名時代からあった黒川城を蒲生氏郷が改築し、天守閣を備えた壮麗な城”鶴ケ城”となった。最終的には加藤家の統治時代に現在の姿になったとのこと。後に会津戦争で明治政府軍の1ヶ月に渡る猛攻にも耐え続け落城しなかった、文武を兼ね備えた、日本屈指の名城。

②城下町の拡大

 蘆名時代に築かれた城郭は、手狭になっていたため、城下町の建設にも乗り出します。まず、車川を利用した外堀を築きました。そして、外堀の内側にあった神社や寺を外に出し、代わりに家臣を内に住まわせます。更に、外堀の外に庶民を住まわせることで、街が発展する余地を生み出し、要所に寺社や寺を配置するなど、現代に残る会津の町を整備しました。

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大町四つ角商店街。現在まで残っている蒲生氏郷の城下町整備の町割り。鉤の手の形に作られた十字路には様々な狙いがある。水路の水が壁にぶつかり左右に分かれ街全体に行き渡るように、敵から攻められた際の防衛に役立つように、更に二本松・白河・米沢・越後・南山の主要五街道の基点になるように、設計されている。会津の人々には、この五街道を総称して、下野街道や会津西街道と呼ばれ親しまれているとのこと。なかなか見事な鉤の手型の十字路で、カッコ良かったです!

 

③商工業の奨励

 上述の城と街を整えると、今度は商業の振興にその辣腕を振るいます。

まずは、経済システムの構築です。十楽と呼ばれる、楽市・楽座を発展させた商業政策を行い、毎月、1〜10日それぞれの日を定めて6箇所で市を開くこととしました。また、人材育成にも力を入れます。蒲生氏郷の故郷である近江日野から、優れた商売センスを持つ近江商人を呼び寄せ、彼らの販売ノウハウを活かした、商業の発展を目指しました。例えば、倉田家は、氏郷の招聘で会津の地にやってきたという説が有力で、「四検断(後述)」の一角を占める豪商となりました。

 その一方で、会津では、簗田家・坂内家、小池家をはじめとする、蘆名時代からの世襲の商人が強い力を持っていて、地域の商人たちを束ねていました。氏郷は、その伝統的地位を温存するだけでなく、連れてきた近江商人達には、これからは会津商人と名乗るように命じるなど、まさに温故知新の精神で、地元の人々との融和にも心を砕きました。

 ここに出てきた、簗田・坂内・小池・倉田の豪商家は、江戸時代を通して「四町検断」の役職を世襲し、税収・訴訟・戸籍の管理・政令の伝達を取り仕切りました。このように会津商人は、官民のつなぎ役として会津の行政に於いて重要な役割を担いました。

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会津若松市歴史資料館「まなべこ」様で展示されている、七日町の古地図。七日町は、今もJR七日町駅から伸びる道沿いに、土産物や会津の特産品を取り扱う店が軒を連ねる。一番右の大きな敷地には検断の簗田家と倉田家の名前が見え、道沿いには、近江屋、高島屋などいかにも近江商人と繋がりがありそうな名前の商家が見える。他にも、山形屋・新潟屋・伊予屋・堺屋などの名前が見え、全国各地から商人が出店して賑わっていたのでは、と想像が膨らんでくる。

 

④産業の育成

 蒲生氏郷が着目し、素地を作った代表的な特産品として、会津会津絵蝋燭日本酒が挙げられます。

元々、蘆名氏の時代に漆の樹の栽培が奨励され、樹液からは漆器、実からは蝋燭が作られる様になっていました。氏郷はこれに注目しました。前述した通り氏郷の出身地は近江であり、その商勢を振るいつつあった近江商人に強いコネクションを持っていました。そして、近江商人の主力商品にも、漆器や蝋燭があったのです。氏郷は、近江から高い技術を持つ漆器や蝋燭の職人を呼び寄せ、現代に続く会津塗と会津絵蝋燭の素地を生み出しました。また、日本酒についても、同じく近江から杜氏を招く事で、当時は上方でしかまともに生産されなかった日本酒の生産に力を入れました。

この様に氏郷は、政治・市場機能を整えた上で、特産品を作る事で会津の経済力の基盤を作る事を目指したのです。

 

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会津塗(出典:白木屋漆器店様HP)1800年代初頭に完成したと言われる会津の伝統的な絵で、会津絵と呼ばれる。桧垣、松竹梅、破魔矢などの文様で構成され、松は常に変わらぬ平安、竹は風雪にも耐えうる力、梅は寒さの中で放つ清らかな香りを表現し縁起物の破魔矢と合わせることで、人生の門出や一期一会を大切にする精神をが現されている。

 

会津絵ろうそく祭り(引用:会津若松観光ナビ様)会津若松の冬の風物詩で、鶴ケ城や御薬園など、会津の各所で計約1万本もの会津絵ろうそくが灯され、暖かい光に包まれるとのこと。 

 

蒲生氏郷の政策をまとめると、ハード面(城郭・城下町の整備)、ソフト面近江商人の招聘・既存の商人の活用、市場の制度)を整え、製品会津塗・会津絵蝋燭・日本酒)を生み出して販売を奨励するという、現代の企業にも近い経営感覚を持ち合わせた、理論的かつ革新的な大名であったと言えると思います。 

この蒲生氏郷が築いた基礎があったからこそ、会津は戦国末期〜江戸初期にかけての激動の時代の荒波を耐える事ができたのかもしれません。

 

2.会津藩松平家225年を支える支柱を立てた、保科正之(ほしなまさゆき)

 その後、会津を治めた大名は、戦国〜江戸初期の激動の影響を受けたのか、長続きしませんでした。君主を上杉氏・蒲生氏(第2次)・加藤氏と頻繁に藩主が変わった後、日本史上屈指の名君と名高い、保科正之によってようやく落ち着きます。(会津松平家始祖)

 保科正之は、江戸幕府2代目将軍秀忠と後北条氏旧臣の娘との間に、ご落胤として生まれました。その出自のため、幼少期は存在を隠され保科氏の養子になっていました。

 その後、偶然にその存在を知った後の3代目将軍家光と対面し、正之は大いに気に入られたそうです。家光が将軍になってからも、真面目で有能な正之は絶大なる信頼を寄せられ破格の待遇を受けました。家光亡き後も、4代目将軍家綱の後見人として、幕府の政治の中枢を担い、災害・公共事業などに尽力して、幕府それまでの武断政治から文治政治への転換を実現し、江戸幕府265年の平和の礎を築きました。その功績から、松平姓を許され会津松平家の祖となっています。

 そんな正之が任された会津の地は、江戸から遠く離れた東北の地、特に北の最大の外様大名仙台藩伊達家を睨む地理的要衝にあり、幕府からの信頼の厚さが伺えます。ここでは、保科正之会津の地で行なった政策を会津商人との関係についても触れながら纏めます。

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保科正之肖像画(引用:Wikipedia)

①政治体制の改革

 江戸時代初期、各藩の給与体制は、地方知行制が主流でした。これは、家臣に土地と付随する百姓(地方)を分け与え、その土地での経営と年貢の徴収(知行)を任せる、言わば旧来の封建的システムです。この体制では、組織体制のヒエラルキー化が進み、藩主が直接指示を出すことができる直属の家臣が少なくなります。

 正之は、これにメスを入れ、蔵米渡し制に移行します。これは、藩が土地を一括で経営し、家臣の身分に合わせて、収入を配分するシステムです。これにより直轄地と直属の家臣を増やすことに成功し、中央集権化を達成しました。

 

蒲生氏郷の商業政策の踏襲とアレンジ

 正之は、蒲生氏郷時代から重きをなした商家、特に簗田家を中心とした検断を温存し商業政策を踏襲します。これは、既に確立していた会津の商習慣を活用することで、物資の需給や価格などの統制を取りやすくする狙いがありました。

 また、新たに追加された政策として留め物・津留があります。これは、藩の許可がないと、藩外に輸出できなかった制度で、対象は特産品や必需品でした。これも需給や価格の統制を取るために行われた施策です。

 

③常平倉・社倉

 正之は、上記の留め物・津留にもあった通り、物資の需給・価格の安定化に心を砕きました。その中でも、米に対しては特に力を入れ、常平倉・社倉を導入しました。常平倉は公費・社倉は庶民のお金で運営される米蔵で、豊作の年は米を買い入れ備蓄し、不作の年は米蔵から流通させることで、米価の安定と飢饉対策を行いました。

のちに述べる、家訓十五条には社倉についてこの様に述べられています。

『一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。』

 

④家訓十五条の制定

 正之は、以降の藩主とその家臣達が守るべき掟として、家訓十五条を制定しました。天皇を敬い、幕府に忠節を誓うこと、上下身分をわきまえる事、公正な政治を行い法に従う事、秩序や組織を乱してはならないことなど、言わば会津藩の経営理念となる重要事項を十五箇条に渡って纏めています。

 

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。

一、兄を敬い、弟を愛すべし。

一、婦人女子の言、一切聞くべからず。

一、主を重んじ、法を畏るべし。

一、家中は風義を励むべし。

一、賄を行い、媚を求むべからず。

一、面々、依怙贔屓すべからず。

一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。

一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。

一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。

一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。

一、法を犯す者は宥すべからず。

一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。

一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。

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会津若松市では、2002年に「あいづっこ宣言」が策定されている。これは家訓十五箇条を現代に合う形にアレンジしたもので、会津の子供達に、心を豊かに育みながら、会津の歴史や文化を受け継いで欲しいという願いが込められている。

④学問の普及

 正之は、藩学(藩が公認する学問・思想)を朱子学としました。朱子学は、儒学の一派ですが、上下身分や秩序を重んじる学問で、家訓十五条の精神もこの儒学の影響を色濃く反映しています。正之は、藩の教育水準を高めるべく、豪商倉田家出身で著名な儒学者である横田俊益(よこたとします)を起用します。横田俊益は稽古堂を設立し、そこでは儒教・詩文・国文・医学など幅広く講義が行われました。身分を問わず様々な人々が集まったので、一般庶民に向けた日本最古の私学校と言われています。

 一方で、心学(庶民の間で流行った学問)は、近江聖人と呼ばれた中江藤樹を始祖とする藤樹学(陽明学でした。江戸時代初期に、会津から若い優秀な町医師が京都に学問に行き、この藤樹学を学んで持ち帰ってきた事が始まりです。実は、この藤樹学は、朱子学を批判する形で生まれた学問であるため、一時は禁止されましたが、会津で行われた学問は、専ら庶民の道徳教育にのみ主眼が置かれている事が理解され、禁止が解かれる事となりました。

藤樹学の学者は、庶民からも尊敬の眼差しで見られ、藩の統治にも大きく貢献したために藩から表彰される人物もいたそうです。

 

このように、保科正之は、家臣への給与体系の整備・領民の食料などの生活安定・教育水準の確保・家訓による藩の理念の明確化など、人々の生活を安定させ、指針を定め導くシステムを構築する事に長けた指導者でした。このような仕組みが最も優れている点は、代が変わっても安定した統治・経営を継続する事ができるという点です。彼が構築した優れた藩の組織こそが、会津藩を以後220年以上に渡り力強く支える屋台骨となったと思います。

 

3.江戸時代後期の会津藩会津商人

 さて、本当は江戸時代後期の会津藩会津商人についても語りたいのですが、今回の旅行時には知識がなかった事もあり、事前に取材コースに組み込むことが出来ませんでした。また、改めて会津を訪ねる際のお題として、ここでは項目と概要の紹介に留めておきたいと存じます。

・松平容頌と家老田中玄宰

5代目藩主松平容頌(まつだいらかたのぶ)田中玄宰(たなかはるなか)は、天明の大飢饉や藩の赤字財政の苦境から、会津藩を立て直した中興の立役者です。蒲生氏郷保科正之時代に生まれた特産品に更に改良を加え、更に養蚕薬用人参といった新たな特産を育てたことで知られています。また、会津藩士のための学問所、日新館の建設とその過程で大活躍した会津商人の須田新九郎の物語など、興味深いエピソードがたくさんあります。

youtu.be日新館の上空からの撮影動画(引用:會津藩校日新館様HP)会津藩藩士は10歳を迎えると、日新館で文武の修練を積んだ。武術や医学、天文学のみならず、水練用のプールまで完備されており、学生も1000人以上に及んだ。優秀な学生は江戸や他藩への留学も許されたとのこと。

・藤樹学

前述の通り、会津の心学の主流は藤樹学と言われています。藤樹学は、利己主義を捨て、利他の精神を持つことを中心とした教えです。喜多方から京に学びに行った町医者たちが持ち帰ったことをきっかけに、喜多方を中心に地元の農民・商人・男女を問わず、一般庶民の教養として広く広まりました。

実は、近江商人三方よしに代表される精神も、この藤樹学にルーツがあるとされており、ここでも近江と会津の深い縁を感じずにはいられない発見で、非常にテンションが上がりました!!

この話をもっと深掘りしたかった!改めて会津に行く際は、喜多方にまで足を伸ばして藤樹学巡りをしたいです!

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以前、近江八幡市に旅行に行った際に、駅のロッカーで見つけた近江商人語録。近江商人も、”利他の精神”、”人として正しくある事”を非常に大切にしている事がわかる。

豊臣政権末期に、蒲生氏郷によって会津にやってきた近江商人の技術、そして江戸時代初期に会津に持ち込まれた藤樹学。近江発祥の文化や思想が、別々のルーツを辿って、会津の地で再び巡り会っていました。

このような、奇跡の巡り合わせに出会える事が、歴史を学ぶ上で最もスケールとロマンを感じる瞬間だと思います!!

 

 

4.明治維新後〜今に遺る会津商人の足跡

幕末から明治にかけての会津では、会津藩会津戦争に敗れたことで、鶴ケ城御薬園土津神社といった、今に遺る歴史遺産や土地が明治新政府軍に略奪・接収され、荒廃していました。これに対し、古くからの会津の豪商達が私財を投げ打って、明治新政府からの土地の買い戻しや復興に貢献しました。

また、江戸時代の商人によくあることですが、藩や幕府と深くつながることで地位を築き上げた商家は、時代の変化に際しては政策や政権の変化の影響を大きく受けてしまいます。藩や藩士へのお金の貸し倒れなども多かったことでしょう。会津戦争会津藩が敗れたことは、大きな痛手となったようです。

これらの事が、結果的に会津の豪商達の経営悪化と没落の一因となり、会津商人の記録の多くが失われてしまいまったと言われています。しかし、会津商人達は、明治維新の激動の時代に、自らの身を捨ててでも、会津の誇りを守り後世に受け継いだ立役者と言えるでしょう!

しかし激動の時代を経てもなお、会津商人の足跡を今に伝えてくださる方々が多くおられます。この旅では、そんな会津商人スポットを主に巡ったので、次回記事にて、書く事ができればと思います。

 

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御薬園の美しい日本庭園。元は蘆名氏の別荘だった。2代目藩主、保科正経が、病気に苦しむ領民を救済するために、薬草の栽培を始めたたことから、この名がついた。

以上のように、今回の記事では、会津商人について、日本屈指の名君と名高い、蒲生氏郷保科正之の両君の統治との関わりを中心に述べました。

先ほども少しだけ述べました通り、次回の記事では、実際に訪れた会津の名所や食べ物を中心に、旅の記録をメインに纏めた記事にしたいと思います!

 

余談:その時世界では

蒲生氏郷保科正之会津を治めていた16世紀末〜17世紀後半

ヨーロッパでは、ドイツ発の宗教改革の波がフランスに到達しており、フランス王家が保護するカトリックと新興宗派のプロテスタントの戦争である、ユグノー戦争が終盤を迎えていました。それまでの様に、プロテスタントを弾圧することでは抑えきれなくなっていたフランス王家は、1598年にナントの勅令でプロテスタントを公認することで、ユグノー戦争の収束に向かいました。

各自の職業を神から与えられた天職とし、善行(商売)の積み重ねにより神から救済されると説いた、プロテスタントの思想は、金儲けは悪として忌み嫌っていたカトリック社会の教義を大きく覆すものでした。

この商業の宗教的正当化が、17世紀にルイ14世重商主義政策によるフランス最盛期の現出、さらには18世紀の西欧資本主義の発達にまで行き着く大きな時代の胎動を生み出す契機となりました。

実は、この商業に対する宗教観の改革は、江戸時代の日本においても仏教や心学の中で起きており、江戸時代の商業の活性化に貢献していました。

さらに言うと、私は、明治維新後の日本の急速な近代化は、日本で起きたこの“宗教改革”がもたらした、西欧資本主義に対する親和性が、大きな役割を果たしていると考えていて、これについてもいつか語ってみたいと思います!