歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【商人旅】~会津商人編①~ 会津の玄関口、白河を訪ねて

今回の旅は、福島県白河市会津若松市の2箇所の旅となりました。この旅について、以下の3章に分けて記事にまとめたいと思います。

 

第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて

第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学

第3章:今回の旅で出会った歴史スポット・グルメ(前編・後編)

 

そして、今回の記事は「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」にあたるわけですが、以下の流れで勧めたいと思います。

1.会津の歴史概要

2.白河の関

3.小峰城

 

1.会津の歴史概要

 まず、今回の旅についてお話しする前に、会津の歴史をざっくりとまとめてみました。

 

飛鳥・奈良時代

会津の地名が出てきた文献として最も古いものに、『常陸国風土記』があります。そこには、7世紀中ごろ有名な大化の改新で確立した律令制度によって成立した陸奥国の一部として、会津評(あいづのひょう)が設置されたと記載されています。この時期に会津地方は、本格的に大和朝廷の治めるところとなったと思われます。

 

平安時代

11世紀の前九年・後三年の役において、奥羽で強勢を誇り朝廷と敵対関係にあった安倍氏清原氏との戦に向かう源頼義源義家が、2代に渡って白河や会津を訪れ、戦勝祈願のために神社を造営したとの言い伝えがあります。

大和朝廷の支配がより北方に及ぶにつれて、陸奥国も北へと拡大していきます。その中で軍事拠点としての機能はさらに北に位置する多賀城へと移っていきますが、会津地方、特に白河は、古来より続く要衝としての歴史をこの先も歩んでいくことになります。

 12世紀に起きた源平合戦においては、当時、天台宗真言宗と肩を並べた法相宗慧日寺(えにちじ)会津地方随一の有力勢力でした。彼らが平氏側に味方したことにより、会津は平家の勢力下となりました。 

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古代における陸奥国の拡大

 

鎌倉・室町時代

鎌倉時代に入ると会津の地は源氏方の領するところとなり、源氏に味方して源平合戦奥州合戦で戦功を挙げた三浦氏に、会津の地が恩賞として与えられました。彼らは後に蘆名(あしな)氏を名乗るようになります。これが後の戦国の世に伊達氏と並び称される南陸奥の雄、蘆名氏の起源です。

蘆名氏は鎌倉・室町・戦国時代と約400年もの間、会津の地を治めます。室町時代には、黒川城(後の鶴ヶ城を築き、会津若松市の起源となります。

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黒川城(現在の名称は、鶴ヶ城または会津若松城

戦国時代

16世紀、戦国時代に登場した蘆名盛氏(あしなもりうじ)の頃に、蘆名氏は最盛期を迎えます。

南は常陸の佐竹氏、北は米沢の伊達氏と、これまた平安・鎌倉時代から続く名門かつ強力な戦国大名に挟まれながらも互角に渡り合い、蘆名家の最盛期を現出しました。

また、猪苗代の金山開発や、商業を育成し会津商人の起源を作るなど、内政にも手腕を発揮しました。蘆名盛氏は、現在の会津の原型を形作った功労者と言って差し支え無いでしょう。

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戦国時代の会津周辺のおおまかな勢力図

しかし、伊達政宗の登場によって、伊達氏は急速に力をつけ、この南奥羽のパワーバランスが大きく変わることになります。蘆名氏は、常陸の佐竹氏と同盟を結んで伊達政宗に対抗するも、ついに1589年の摺上原の戦い伊達政宗によって滅ぼされることとなりました。

更に、この僅か1年後には、豊臣秀吉が後北条家との戦を圧倒的優勢で進めており、全国統一を確固たるものとしつつありました。この秀吉には伊達政宗も屈服せざるを得ず、会津の地は、秀吉の随一の重臣である蒲生氏郷(がもううじさと)が治めることとなりました。蒲生氏郷は近江を治めた経験を生かして、黒川城を大改修して鶴ヶ城とし、城下町の整備会津の商業を強化に尽力する等、会津の地を豊かにする礎を築くこととなった人物です。

 

以上が、会津が歴史の表舞台に登場してから戦国時代に至るまでの歴史概要となります。

これ以降の歴史については、次回掲載予定の記事(第2章)で、会津商人に焦点を当てつつお話できればと思います。

 
2.白河の関
さて、ここからようやく今回の旅のお話をさせていただきたいと思います。まずは、会津はもとより、奥州の玄関口として、幾度も歴史の重要な通り道となった白河の関から旅をスタートしました。
白河の関は、JR東北本線もしくは東北新幹線新白河駅から車で20分のところにあります。

白河市街地から出るとすぐに、なだらかな山々を背景とした田園風景が現れますが、すぐに林の中を蛇行して抜ける道が始まります。その道には、深い緑のこんもりとした木々が、道に不揃いに道に競り出そうとしています。まるで、奥州の自然が、人間の侵入に抗っているかのように感じます。さらに進んで白河の関が近づくにつれ、林を道沿いに切り開いた土地に、ようやく少しずつ民家が現れるといった具合です。おそらく古代・中世における奥州は、このような生命力あふれる自然に阻まれ、交通・交易ルートは非常に限られていたのでしょう。

白河の関へ向かう道路、伊王野白川線(Google Map)

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白河の関に到着すると、そこは太古の歴史を感じる神秘的な世界でした。

関所としての白河の関は、平安時代太政官の記録にも残っており、7、8世紀には既に存在していたものと思われています。しかし、発掘調査からは縄文時代の土器や鉄器、家事工房跡も発見されており、現存する記録よりも遥か昔からこの地に人が住み拠点として機能していたことが示唆されています。

この場所には、前九年の役で活躍した源義家や、源平合戦に兄源頼朝の元に駆けつけようとする源義経、また奥州藤原氏を攻める源頼朝も、この地を訪れたとのことです。

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入口から既に神秘的な雰囲気に包まれている、白河の関

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入口から奥へと誘うような、緩やかな階段がみえる。

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階段を上がると、奥に白河神社がひっそりと佇んでいる。

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源義家が幌をかけて休息をとったといわれる楓。

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源義経が射立てたと伝えられる松(根株)。

このように白河の関は、自然に囲まれて、尚且つ神秘的なエネルギーを感じられる特別な場所でした。奥州の玄関口として、また政治的にも人心に訴えかけるに相応しい風格を持っていました。さぞや当時の奥州統治に必要不可欠な場所であったのだろうと、想像力を掻き立てられるには十分で、歴史ロマンを満喫できる場所でした。


3.小峰城
白河の歴史を訪ねる上で、もう1箇所欠かせないのが、日本100名城にも数えられる小峰城(こみねじょう)です!鎌倉時代に、奥州合戦での功績を認められた結城(ゆうき)氏が白河の地を与えられ、戦国時代まで統治しましたが。その間に14世紀ごろ建てられた城と言われています。

しかし、豊臣秀吉小田原征伐に参戦しなかったことから、結城氏は改易されます。代わりに蒲生氏郷会津と白河の地が与えられますが、息子の代にお家騒動で転封。その後に上杉景勝が領したものの関ヶ原の合戦で西軍に与したことから米沢に転封。再び蒲生氏が復帰するも嫡子に恵まれず断絶と、君主が頻繁に変わる土地でありました。

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太鼓門跡方面から見た小峰城

江戸時代に入って、白河藩が成立しますが、240年の間に7家もの藩主が入れ替わり立ち替わり統治するなど、相変わらず目まぐるしい君主歴を辿ります。しかし、白河を任される家は、親藩・譜代という徳川家にとって信頼できる大名家ばかりで、いかに江戸幕府にとって重要な土地であったかが伺えます。中でも初代藩主であった丹羽長重(にわながしげ)や、老中まで上り詰めた、松平定信(まつだいらさだのぶ)阿部正外(あべさだとう)など、名君も数多く生まれました。

 さてその中で、現存する小峰城や白河の基礎を作ったのは、築城の名手、丹羽長重です。小峰城の魅力は、何と言ってもこの石垣の美しさ!ただ美しいだけなく、隙間なく石垣を敷き詰めることにより、敵がよじ登る際に手をかける隙間を減らし防御面でも非常に理にかなっているとのこと。

併設している小峰城歴史館には、当時の城の内部を再現した大掛かりなCGドキュメンタリーが上映されており、見応え十分ですので、是非おすすめです!

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この美しい石垣!!!

白河藩は、戊辰戦争においても、その土地の戦略的重要性から、新政府軍と会津藩を中心とする旧幕府軍との間で激戦地となりました。のちに白河口の戦い」と呼ばれるこの戦いは、100日間にも及ぶ激戦の末、新政府軍側が勝利、小峰城は甚大な被害を受けました。

付近の山では多数の弾丸が飛び交う死闘が繰り広げられており、後に城の修復作業を行う際に伐採した杉材から弾丸が数多く見つかりました。その一部が床や柱に弾痕という形で残されており、戦闘の激しさを物語っています。

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床に使用されている杉材に残っていた弾痕

 

以上が、今回の記事、「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」です。

このように白河は、地理的に非常に重要な土地であったため、数多くの歴史ドラマが秘められた場所でした。また、白河の関小峰城も、非常にコンパクトに整備されていて、それでいて当時の状態を今に伝える雰囲気や、解説も充実しています。非常に観光し易い街で充実した旅となりました。

次回記事は、いよいよ会津若松に到着します!「第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学」もどうぞよろしくお願いいたします。

また、道中に白河ラーメンや福島県産の桃も食べたのですが、この感想については、「第3章:今回の旅で出会ったグルメ」に記載しようと思います!

 

余談:その時世界では

 

白河の関陸奥国の抑えとして重要な役割を担っていた8世紀、

世界ではイスラーム帝国(ウマイヤ朝)と唐王朝が全盛期を迎えていました。

イスラーム帝国は、第5代カリフ、アブドゥルマリクの元、アラビア語公用語化、アラブ貨幣の発行と、言語・経済の統一化が達成され、大いに発展しました。その支配領域は、西はウズベキスタン、東はイベリア半島まで跨る大帝国となりました。

唐王朝玄宗皇帝のもと、仏教改革や税制改革、節度使の導入など、開元の治という中国史上稀に見る安定期を実現します。首都の長安の人口は100万人に到達したと言われています。

この両大帝国の誕生が、西はローマ〜東の長安に至る商業ルート、シルクロードの安定化を実現し、世界規模の商業の活性化を促しました。

 

小峰城丹羽長秀によって現在に残るその姿を見せた17世期前半、

中国では明王朝が衰退し、後に清王朝を打ち立てる満州族の国、後金がその勢力を拡大していました。

また、中東ではトルコのオスマン帝国の全盛期で、現在のトルコ・バルカン半島・中東の大半・アラビア半島・エジプト・北アフリカがその支配下にありました。のちの歴史学者がパックス=オトマニカと呼ぶほど、平和な時代でした。

一方で、ヨーロッパはドイツで勃発した三十年戦争の戦乱の真っ只中で、「北方の獅子」こと、スウェーデングスタフ・アドルフが三兵戦術という当時画期的な戦術を編み出しスウェーデン王国の全盛期を築きました。因みにこの三兵戦術は約200年後に登場するフランス皇帝ナポレオンに多大な影響を与えることになります。