歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【新婚旅行日記 1日目】青森市編①

ご無沙汰しております!!

手前味噌ではございますが、青森・函館に新婚旅行に行って参りましたので、その時の旅路を辿りながら記事を書いてみたいと思います!

本記事では、最初に行った町である青森市について書いていこうと思います。まずは、青森市の歴史から始めますので、旅行記から読まれたい方は、次回の記事へとお進みください!

 

1.古代の青森市

三内丸山遺跡

 青森市の歴史は縄文時代に遡ります。有名な三内丸山遺跡は、国の特別指定史跡、また2021年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に指定されました。三内丸山遺跡は、縄文時代中期(約5900年前〜4200年前)に営まれた集落跡です。詳細は、5回目の記事に記載させていただければと思いますが、長期間にわたる暮らしの記録は、縄文時代の様子を知る上で貴重な価値を持つ、学術的に非常に重要な遺跡です

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三内丸山遺跡

奥州藤原氏の台頭

 平安時代に於いては、東北で起こった安倍氏清原氏大和朝廷の三つ巴の大乱である前九年の役後三年の役を経て、奥州藤原氏が中央の政治には属さない独自の勢力を築きました。


2.中世の青森市

鎌倉幕府(北条氏)の支配と崩壊

 鎌倉時代に入ると、奥州藤原氏を滅亡させた鎌倉幕府北条氏が奥州の大半を抑えることとなります。また、2代目執権北条義時は、安倍氏の末裔にあたる安藤氏(後の安東氏)を通して、奥州の統治にあたったようです。

しかし、鎌倉時代末期になると、勢力を拡大した安藤氏の内紛と、それにアイヌの反乱が重なった紛争(安藤氏の乱)を幕府は鎮圧することができず、元寇と並んで鎌倉幕府は衰退のきっかけとなった事件と言われています。

 

②浪岡北畠氏

室町時代になりこの地の支配者となったのは、浪岡北畠(なみおかきたばたけ)氏です。元々北畠氏は村上源氏の庶流で京都で活躍する貴族の家系でした。なぜ、北畠氏が奥州に勢力を築くことになったのか。その経緯をお話しするために、浪岡北畠氏の祖と言われる、南北朝時代南朝側の若き名将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)について、少し紹介したいと思います。

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北畠顕家 Wikipediaより引用。政戦両略の名将にして美少年だったとのこと。


南北朝時代のスター北畠顕家 

 北畠顕家は、鎌倉時代末期に、村上源氏の流れを汲む公家の名門である北畠家に生まれました。この出自だけでなく、才覚にも恵まれていたため、若くして朝廷の重要な官職を歴任し、14歳という史上最年少の年齢で参議に抜擢されました。舞にも才能があったらしく、「花将軍」の異名もあったそうです。


④“花将軍“奥州へ

 後醍醐天皇の覚えもめでたく、建武の新政において奥州の支配を任されることになります。当時若干15歳という若さ、しかも公家の出身にもかかわらず、武人としての才能も申し分なく、東北地方に根強かった北条氏の残党を見事鎮圧しました。また優れた統治手腕を発揮し、東北の武士達を配下に収めます。これが、北畠氏が奥州に根を下ろすことになったきっかけとなった出来事です。

因みに、この時従えていた重臣に、南部師行や結城宗広、伊達行朝といった、後の東北の戦国時代に名を馳せる大名家の祖先もいました。

 

南北朝の騒乱と鬼神の如き活躍

 南北朝の動乱が始まると顕家は、新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)に並ぶ南朝側の名将として大活躍します。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が京都を占領した際には、東北から5万の兵力を率いて出陣しました。

この時の勢いが日本史上類を見ない凄まじさで、鎌倉で足利尊氏の息子足利義詮(よしあきら)を破り、間髪入れずに京都に進軍。新田義貞楠木正成と連携して足利尊氏を破る快進撃を見せました。その勢いを前に足利尊氏は九州へと逃れざるを得ませんでした。

北畠顕家はこの間、足利家の諸将を打ち破りながら1日約50kmも進んだという記録が残っており、日本史上類を見ない規模と速度の行軍(比較として、本能寺の変に際し豊臣秀吉が行った中国大返しは1日約20km)として、名将としての名声を不動のものにしました。

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北畠顕家の最期  

その後、多々良浜の戦い(現在の福岡市)に勝利し、九州で体制を立て直した足利尊氏が再び京都に巻き返して来ると、またしても軍を率いて京都に駆けつけます。しかし、その前に楠木正成は戦死、また新田義貞との連携が阻止され、孤立してしまいます。河内地方で孤軍奮闘するも力つき、堺で起きた石津の戦いで20歳の若さで討ち死にしてしまいました。

若くして文武に華々しい活躍を見せた北畠顕家は、日本史上屈指の名将と言っても差し支えないでしょう。顕家亡き後も、全国で各勢力が南朝側・北朝側に分かれて、50年以上もの間戦い続けることとなります。

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▲明治に入り、顕家の後醍醐天皇に対する忠誠が再評価され、阿倍野神社に父親房と共に祀られている。

 

⑦室町・戦国の青森市

 その後、東北本国の浪岡北畠氏は、南北朝の騒乱の中で勢力を衰退させながらも、津軽に浪岡城(青森市)を築城し、南部氏や安東氏など有力大名との關係によりその後も存続しました。天皇家に連なる名門公家の出身の家柄であることから、京都との繋がり強く、浪岡には貴族文化が入り「北の御所」と呼ばれました。このように、権威的存在として、戦国時代を通して津軽地方を中心に特別な地位を保ちました。これが浪岡北畠氏の誕生の経緯です。

 しかし、戦国末期に、下剋上によって南部家からの独立を果たした津軽為信(つがるためのぶ)によって、ついに滅ぼされてしまうことになります。そして、この南部氏と津軽氏の関係が、後の青森港の誕生に大きく関係してくることになるのです。

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津軽為信像(弘前公園HPから引用)

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▲戦国末期の南部家と独立を果たした津軽氏の領域。


3.近世の青森市

 江戸時代においては、青森市弘前藩の一都市として、津軽氏の治めるところとなります。そして、2代目藩主津軽信枚(つがるのぶひら)の代には、森山弥七郎(もりやまやしちろう)に命じて、江戸に津軽米を輸送する拠点として青森に港町が整備されることとなります。

 この事業にはもう一つの狙いがありました。それはこの地域にもともとあった油川湊(現青森市油川)の権益を奪うことにありました。既述の通り、そもそも津軽藩の成り立ちは、初代津軽為信が主君である南部氏の内紛に乗じて反旗を翻し独立したという経緯があります。この地域の港町である油川には、南部時代からの商人達が多く、なかなか津軽家に従わなかったと言われています。

 その対策として、新たに青森湊を建設し津軽家主導の元運営されることとなりました。この青森湊の完成以降、青森は酒田(秋田藩)〜江戸を結ぶ東廻り航路に参入し津軽米を江戸に運ぶ重要な役割を担い繁栄します。

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▲江戸時代の商業を発展させた海上交易路

 水の文化センター様HPより。https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no01/02.html


4.近代の青森市

 さて、幕末に浦賀・横浜にやってきた黒船は、泰平の世を謳歌していた日本に外国の脅威が迫っている現実を突きつけました。そしてそのことは、函館戦争を経験した明治政府に、北海道の防備と開拓を進めることと同時に、青森の北海道への中継港としての重要性を再認識させることとなります。これが、青森市が当時弘前県の県庁所在地として認められる要因になったと言われています。

 明治以降の魚介類の輸入東北・奥羽本線青函連絡船の開通は、さらに青森港を発展させることとなりました。1988年の青函トンネル開通を機に青函連絡船は運行終了となったものの、北海道との車両輸送、LPGや石油の輸入など現在も重要な役割を担っています

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青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸。(4回目の記事に書きたいと思います。)

 

以上まで、青森市の歴史をところどころ脱線しつつ(笑)、書かせていただきました!青森市の地理的・歴史的な重要性や魅力を、少しでもお伝えすることができたのなら、大変嬉しいです。

次回の記事では、実際に自分の足で歩いた青森市の思い出について、旅行記を書きたいと思います!乞うご期待!

【商人旅】〜会津商人篇④〜 会津の旅の足跡(後編)


今まで3回に渡って書いてきた会津若松編ですが、とうとう今回で最後になります!!

 

3日目:満田屋・飯盛山・御薬園・白木屋・渋川問屋

 

1.満田家で郷土料理

3日目は、朝から七日町通りにある満田屋さんに並んで、ブランチに郷土料理の味噌田楽をいただきました!この満田屋さんは、幕末(天保5年)創業の味噌専門店です。郷土料理のしんごろう餅や身かきにしん、里芋などに3種類の秘伝の味噌だれを塗り炭火で丁寧に焼かれた贅沢な田楽がいただけます。

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1皿目は、柚味噌と甘味噌を一本ずつ、こんにゃくの淡白な味に乗せて、味噌の味を見せつけるかのような一品目。柚味噌は、柚子の香りだけでなく麹のような香りがして甘酒のような仕上がり。甘味噌は、逃げも隠れもしない直球の香ばしさに程よい甘みが加わった味。

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2皿目は、豆腐生揚げ(奥)とお餅(手前)の田楽。豆腐生揚げは山椒味噌で味付け。山椒は決して前に出過ぎず、それでいて程よく存在感があり、ハーブのような香り。香ばしい揚げの香りが、山椒味噌の味をうまく引き立てる。お餅は、つきたての丸餅に甘味噌での味付け。お餅のデンプン質に味噌の味と、炭火焼の焼き目の香りが最大限に活きる仕上がり。

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3皿目は、欠き身にしん(奥)と里芋(手前)。会津名産の欠き身にしんには、山椒味噌。にしんの、臭みを山椒が消す役割をしつつ、旨みを味噌がサポートするかのような味付け。里芋は、甘味噌で味付け。やはり甘味噌はデンプン質の高い食材によく合いそう。里芋の粘りもしっかりとあり、口の中で味噌と里芋が溶け合って口全体に広がる感じ。

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最後に、4皿目はしんごろう。はんつきにしたご飯を握り、じゅうねん味噌を塗って焼いた会津ソウルフードの一つ。じゅうねん味噌とは、福島県でよく見られる味噌で、エゴマといゴマによく似たシソ科の植物の種を煎って擦り込んだ香り高い味噌。半焼きの米とじゅうねん味噌の香ばしさが見事にマッチして、口に入れた時の香りが堪らない。

 

2.飯盛山と白虎隊

飯盛山の見どころ
 朝のお腹が満たされたところで、飯盛山に向けてドライブしました。飯盛山はかの有名な、白虎隊会津戦争で自刃した場所です。

近くの駐車場に車を止めると、地元の商魂逞しいおじ様おば様たちお土産の紹介を受けつつ(笑)売店街を抜け 、急峻な石段にたどり着きました。

 山頂に登ると、白虎隊にまつわる記念碑や像を中心に幾つかの見所があります。

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この石段、山頂まで183段ありますので、必要に応じてエスカレーターをご利用されることをお勧めします!(大人250円)

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白虎隊の自刃の地として知られる飯盛山。慰霊碑やドイツ・イタリアから贈られた記念碑などがある。実は古来から由緒ある山で、前方後円墳の存在や、古代の四道将軍のうち2人がこの付近で合流したことから相津(あいづ)と呼ばれるようになった、というような神話にも関係があるとされる。

飯盛山のもう一つの名所として、さざえ堂があります。正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)と言います。上りと下りの道が別れていて、参拝者たちがすれ違うことがないような珍しい設計がされています。

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山道の中頃にある、栄螺堂(さざえどう)。18世紀末に建築された、珍しい構造を持つお堂。二重螺旋のスロープで、上りと下りがすれ違わないように最上階まで参拝できるようになっている。

②白虎隊の悲劇

ここで、白虎隊の悲劇が起きた経緯を簡単に説明します。幕末の動乱期、江戸幕府江戸城の開城を以って実質的に滅亡し、代わって明治政府が樹立しました。しかし、北越・東北地方を中心に旧幕府側の勢力が奥羽越列藩同盟(おおうえつれっぱんどうめい)を結成し、明治政府との戦いを継続していました。会津戦争はこの東北地方の戦いでの一局面となります。

会津軍は新政府軍に対し、当初から軍備も物量も大きく差を開けられており、終始、圧倒的不利な戦いを強いられました。白虎隊の悲劇が起きる少し前、この時の主な会津藩の戦線は、越後口(新潟方面)・日光口(栃木方面)・石筵口(福島県東部)でした。このうち石筵(いしむしろ)口には、大鳥圭介の伝習隊や土方歳三新撰組といった精鋭を配置するも、板垣退助率いる9倍近い新政府軍相手に敵わず僅か1日で敗走する結果となりました。

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1868年、約5ヶ月に及ぶ会津戦争の終盤、母成峠の戦い会津軍は大敗を喫した。軍備・兵力共に圧倒的不利な状況にも関わらず粘りを見せた会津軍も、この敗戦で石筵口を失ったことで会津城下への道を明治政府軍の眼前に晒してしまうこととなる。もはや命運が尽きつつあった会津軍ではあったが、何とか明治政府軍の進軍を遅らせるため、会津若松城下の北西に位置する戸ノ口に白虎隊を含めた残存兵力を集結させる。

 この敗戦は、会津藩にとっては想定外に早すぎるもので、何とかして新政府軍を足止としようとしますが、その勢いの前になす術もなく負け続けてしまいます。そんな状況の中、会津軍は明治政府軍に一矢報いるべく、戸ノ口原で防御陣地を築いて最後の防衛戦を狙いました。

白虎隊は、16・17歳の武家の少年兵で構成され、本来は予備戦力としての位置付けの部隊でしたが、このような絶望的な状況で戸野口原の戦闘に参加することになりました。当然ながら戦局の挽回からは程遠く、懸命に戦うも壊滅し飯盛山に逃げ込みます。もはや、彼らの最後の希望は、主君である松平容保が守る会津若松城での戦いでした。

飯盛山で起きた白虎隊の悲劇とは、この戦いで飯盛山に逃げ延びた白虎隊の隊員が、山頂から煙の登る会津若松城を見て、会津の運命ももはやこれまでとこの飯盛山で自刃する道を選んだ出来事でした。

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白虎隊が会津若松城の煙を見た場所から撮った写真。雨のため見えにくいですが、中央付近遠方に見える森の中から天守閣が見えます。

 江戸時代では、もう元服を済ませた侍とはいえ、まだあどけなさが残っていたであろう彼らの悲劇を思うと、胸に苦しく響くものがあります。時代や社会、大人たちの利害に翻弄されながらも、必死に生き、散っていった彼らの姿を忘れずにいることは、時代の変わり目における大人達の意地や利害や信念のために、後に続く世代を犠牲にしてはいけないという教訓として大切にしなければいけないと思います。

時代を進めるにも止めるにも、その目的とは、自分たちの世代だけではなく後世に財産を伝えるためでなくてはいけないと思います。私もブログを書くにあたり、いつの日かそういった歴史の遺産を語り継ぐことができるような、そんなクオリティのある記事を書けるようになりたいと願います。

 

 3.御薬園

 次に、会津三名園に数えられる有名な日本庭園の一つ、御薬園に向かいました。

御薬園は、病を患った病人にこの地にあった泉の水を与え治癒させた伝説がつたえられており、蘆名氏が15世紀に入り神聖な土地として別荘を建てたことが始まりです。

その後戦国の乱世の中廃れていた時期がありましたが、江戸時代に入り初代藩主保科正之が再建しました。2代藩主正経・3代藩主正容の時代に農民を疫病から救いたいという思いから薬草園が整備され、藩主導で薬の研究が行われました。

この御薬園は、蘆名家に遡る会津の歴史を土台に、会津松平家の理念とも言える領民の生活安定の願いが表現された、重要な場所でもあると言えるでしょう。

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御薬園の日本庭園は、会津三名園の一つに数えられる庭園です。小堀遠州の流れをくむ遠州流の作庭家、目黒浄定が手がけた庭園です。江戸時代の大名庭園のスタンダードとも言える、築山泉水庭園(池に水をはり、茶室や林などを有機的に組み合わせたスタイル)と言われています。

この薬草園で、正容の時代に導入された朝鮮人は、薬草としての効能もさることながら、約120年後に起きる天明の飢饉で大打撃を受けた藩財政を立て直す財源として、以前の記事にも取り上げた、名家老の田中玄宰(たなかはるなか)が着目し官民一体で藩の特産物として育成されました。

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御薬園では、現在も会津特産の薬用人参をはじめ400種類のハーブや植物が育てられています。江戸時代に当時の人達が領民のために薬草を集め薬を作る姿が目に浮かぶようでした。お土産店では、御薬園で育てられた植物で作られた健康茶が販売されています!

この御薬園は、会津戦争においては新政府軍に接収され診療所となったため戦火を逃れました。戦後長尾和俊に代表される会津の豪商たちが私財を投げ打って新政府から買い戻し、松平家に献上されました。明治時代に松平容保も一時期この場所で過ごしたと伝わっています。大正ロマンの代表的な歌人与謝野晶子も訪れたそうです。

 4.白木屋漆器

続いて、会津を代表する会津塗の老舗、白木屋漆器さんへ。その起源は17世紀中頃に、加藤氏の時代に会津に来て、木綿を扱う商人だったとのこと。

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白木屋さんの店構え。大正初期に建築されたという。ルネッサンス様式を取り入れながらも構造は木造土蔵造という和洋折衷の重厚感のある建築です!


18世紀に入り漆器業を手がけ、江戸だけではなく上方にまで販路を広げました。17世紀初頭に保科正之が行なった殖産興業政策とも関係あるのではと思えます!戊辰戦争の戦火の中も生き延び、明治に入ると会津塗の復興に尽力され、有名なパリ万博にも出店されたとのことです。お店をお伺いすると、今尚受け継がれる伝統的な会津塗の品々と多くの展示資料があり、現在でも会津塗の普及に貢献されています。僭越ながらこれぞ老舗の名店!と申し上げたくなるような風格を備えていると思いました!

 

白木屋漆器店の素敵な商品の数々はこちらのリンクに掲載されています。

また、建物の詳細情報は、こちらのリンク参照ください。

 

 5.渋川問屋

最後に、会津の旅のフィナーレとして、会津若松の郷土料理の専門店、渋川問屋でディナーをいただくことにしました!!

渋川問屋は、会津若松のメインストリート、七日町通りに明治時代に、北前船から運び込まれる海産物を干物にして会津の食卓に提供する海産物問屋として繁盛したそうで、ニシンの干物の東日本の相場に強い影響を持っていたそうです。

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明治や大正時代に建てられた渋川問屋の建物は、日本の伝統的な木造建築の中に、窓枠や洋室など随所に洋の要素も取り入れた、和洋折衷の大正ロマン溢れるお店です。

会津随一の海鮮物問屋として繁栄しましたが、昭和には一家の長男であった渋川善助が二・二六事件連座するなど、激動の時代に巻き込まれました。現在は、旅館と懐石料理のお店として会津でも人気スポットなっていますが、日本の各社社会を憂いた善助の育った部屋は、「憂国の間」として今も残されており、松本清張三島由紀夫も訪れているそう。(詳細はこちらのリンクをご参照ください。)
今回は、宿泊はできませんでしたが、会津での最後のディナーということで、コースメニュー(会津会席膳)を注文しました!!伝統的なお料理に舌鼓を打ちつつ、明治・大正の姿のまま保存されたレトロな建築空間が、旅情を誘う素敵なひと時を過ごしました!

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1膳目はにごり酒といかにんじん。にごり酒は渋みと甘みが五分五分でバランスしていて美味しい。いかにんじんは、福島の郷土料理。にんじんをとろみのある出汁に漬け込んだ優しい味。

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2膳目は、にしんの山椒漬けと、にしんの昆布締め。にしん料理も会津の代表的な郷土料理。山椒締めはにしんの臭みがなく、山椒の香りは仄かにする味付け。歯ごたえがあり噛めば噛むほどにしんの出汁が口に広がる。昆布締めは、昆布に巻いて砂糖醤油酒等で味付けしている模様。濃いめの味付けの中にも昆布とにしんの味がしっかり活きていて、日本酒にピッタリ!

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3膳目は、棒たら煮とこづゆ。棒たら煮は、たらの干物を水で戻し、何度も煮直すことでふっくら柔らかく膨らんだ状態に仕上がっている。見た目によらず塩分控えめの優しい味付け。

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こづゆは、乾物のホタテの貝柱を水で戻して、出汁でキクラゲとにんじんを煮込んでお酒や醤油で味を整えた会津の郷土料理。五臓六腑に染み渡るような優しいお出汁のお味。

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4膳目は、紅鮭の手毬寿司と小鉢。紅鮭はほとんど塩を感じない優しい味付け。鮭がご飯の脇役になって、ご飯の優しい味が引き立つ箸休め。小鉢は、茄子の味噌漬けで、味噌の香り高く、茄子はアツアツでジューシー!

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5膳目は、会津塩川牛カットステーキ。筋と脂が少なく、口の中ですぐにほぐれる。うっすら塩味で味付けしていて、控えめな肉の味大根おろしで味を変えながら、サイコロステーキを大事に2口ずつで頂きました!笑

 

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6膳目には、銀だらの粕漬けと天ぷら。銀だらの粕漬けは、たらを粕の甘いソースでしっかり漬け込んである。皮と周辺の肉に染み込んだソースと脂の旨味が日本酒と相性抜群!天ぷらは、にしんと饅頭と南瓜とさやえんどうの天ぷら。にしんは臭みをしっかり抜いた淡白な味、饅頭の控えめなあんこと抹茶塩の相性抜群、南瓜とさやえんどうも勿論◎!

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7膳目に、枝豆の混ぜご飯とそばつゆがゆ。枝豆の混ぜご飯は、うっすら塩味をつけた会津産ひとめぼれのご飯の香りに、枝豆のコリコリした食感が楽しい。ご飯の光沢もキラキラしていて、これぞ”銀シャリ”という感じ。

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そばつゆがゆは、蕎麦湯をお出汁で味付けして、麦?のお粥が入っていた。ご馳走の最後のクールダウンでお腹にも優しいお料理。

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最後に、デザートの氷菓子。醤油や味噌や出汁のお料理が多いコースの最後に、密度の濃厚なアイスクリームが美味!


6.最後に
これでとうとう、会津の旅の記事が終わりになります!本当はもっと行きたかった場所や書きたかった場所がたくさんあるのですが、今回の記事は一旦ここまでとし、きっといつの日か会津の地を改めて訪れる際の楽しみにしたいと思います。

会津を旅する中で、激動の時代にあって信念を貫いたことに対する先人達への誇りがあり、それを大事にすることで育まれた歴史や文化は、掛け替えのない財産となっていると感じました。

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夜の七日町通り。お土産や雑貨屋さんが立ち並ぶメインストリートは、夜になるとまた違う表情を見せてくれる。街灯の灯と相まってレトロさが増しているような趣がある。



これはあくまで個人的な意見ですが、世界史と日本史の大きな違いの一つは、世界史は勝者の歴史である一方、日本史は敗者の歴史も等しく慈しむ所にあると思います。アジアやヨーロッパの歴史に於いては、前の支配者の築いた財産を、後の支配者が徹底的に破棄することが散見されますが、日本においては源平合戦戊辰戦争に代表されるように、勝者・敗者両方の歴史を大切にする傾向があり、そうすることで育まれた日本の歴史はとても濃密で、深みのある物語になっていると思います。

昨今、SDG‘sの重要性が語られることが多いですが、様々な町・人・製品に対して、歴史は付加価値をつけてくれる効果があると思っています。この付加価値は、資源を消費したり廃棄物を出すことなく生み出すことができ、非常に“SDG‘sな“価値の生み出し方だと言えます。

先述したとおり、日本には勝者も敗者も分け隔てなく愛情を向ける文化があり、それにより育まれた歴史や文化には他国に負けない特別な価値があると思います。私もこのブログを書く中で、少しでもそういった歴史の楽しさ、美しさ、魅力を伝えることができればと気持ちを新たにした、そんな旅となりました。

 

余談:その時世界では

御薬園が、会津3代目藩主松平正容によって造園された17世紀末、北欧では北方同盟が結ばれました。当時バルト海沿岸の全域を支配下に置き、バルト帝国と呼ばれるほどの圧倒的な勢力を誇っていたスウェーデンに対し、ロシア・ポーランドデンマークが同盟を結び、1700年から約20年に渡り繰り広げられる大北方戦争のきっかけとなります。

「北方の流星王」の異名を取るスウェーデン王カール12世は、序盤こそ素早い機動戦で先手を取りデンマークポーランドを屈服させるものの、ポルタヴァの戦いで好敵手と評されるロシアのピョートル大帝に敗れた後は勢いを失い、台頭著しいプロイセンにも参戦されるなど、最終的には敗戦という結果に終わります。結果、ロシアが東欧・北欧に於ける覇権国の地位を確立。この地位と東ローマ帝国皇帝家との血縁と共に、ロシア王家は名実ともに「皇帝」の称号を得て、ロシア帝国が成立することとなりました。

ロシア帝国は、この頃までに既に太平洋側までその国土を拡大させていましたが、当時絶頂期にあった清朝とのネルチンスク条約(1689年)においてアジアでの不凍港の獲得の失敗という結果になりました。この事と、先述の北方大戦争におけるヨーロッパでの成功から、ロシア帝国不凍港の獲得を目指した南下政策の矛先は、スウェーデンという旧覇権国を打破したヨーロッパ方面、第二次ウィーン包囲に失敗し衰退期に入っていたオスマン帝国との抗争に向かうことになります。

これらの情勢は、日本とロシア帝国接触を150年近く遠ざけることになります。再びロシア帝国がアジアに南下政策の矛先を向けるのは、清朝が衰退期に向かう19世紀の中頃。アイグン条約(1868年)・北京条約(1870年)によって念願の不凍港であるウラジオストクを獲得します。日本では戊辰戦争の最中にあり、アイグン条約が結ばれた丁度その頃、会津戦争に向けて着々と明治政府軍が進軍している最中のことでした。

【商人旅】神戸の街の「和と洋」・「古きと新しき」が交わる場所、相楽園

今回は、神戸市民から100年以上もの間親しまれ続け、神戸市の歴史と発展を見守り続けてきた歴史ある日本庭園、相楽園を取り上げたいと思います。

 皆様は、神戸の街にどのようなイメージをお持ちでしょうか?ファッション、異人館、お洒落なカフェや雑貨屋さんetc…  実は、この相楽園を造営した小寺泰次郎(こでらたいじろう)は、この関西を代表するオシャレの街、神戸市の発展に大きく貢献した重要人物なのです!そんな小寺泰次郎と、彼と共に神戸の街の発展を見守ってきた相楽園の歴史を紹介いたします!

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出典:相楽園HP。約20,000㎡の広大な庭園は、池泉回遊式という池の周りを一周しながら景色を楽しむように設計された庭園です。小寺家の家紋が入った風格ある正門や、飛び石や石橋 滝石組みなどの意匠、他に蘇鉄(ソテツ)園やツツジの 名所としても有名です。特に蘇鉄は鹿児島県より寄贈された名木があり、私の祖父が鹿児島出身である事からも、浅からぬご縁を 感じます!!

 

①小寺家のルーツ

 相楽園は、小寺泰治郎氏の邸宅として、1885年(明治18年)頃に造営されました。小寺家は、戦後最初の神戸市長である小寺謙吉(泰次郎の子)を輩出するなど、神戸を代表する名士でしたが、元は三田藩(現在の兵庫県三田市)の藩主であった九鬼(くき)家に仕えた下級武士の家でした。

九鬼家といえば、戦国時代に織田信長の元でその名を轟かせた強力な九鬼水軍で有名ですが、江戸時代に入っても、幕府の礼式を取り仕切る要職として外様大名としては特別な地位にいました。

 

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▲出典:長崎大学付属図書館。(http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/jp/record.php?id=52)明治20年ごろの神戸の写真。 左中ほどの塀で囲まれた屋敷が小寺安治郎邸(現在の相楽園)。 奥に開港したばかりの神戸の港と船が見える。

②小寺泰次郎の活躍

  そして時は幕末、日本中が尊王攘夷と開国佐幕に思想が二分していた激動の時代でした。その中にあって、最後の三田藩主である九鬼隆義(くきたかよし)は、三田藩の軍備の西欧化など、近代化を断行しました。この時に、下級藩士の身分から取り立てられ活躍した人物が2人いました。そのうち1人が白州退蔵(しらすたいぞう)、そしてもう1人が小寺泰次郎だったのです。

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▲出典:NPO法人歴史文化財ネットワークさんだ。左から九鬼隆義、白洲退蔵、小寺泰次郎。志摩三商会設立のこの3人は神戸の街の発展に大きく貢献した。因みに、白洲退蔵は終戦直後の日本の大政治家、白洲次郎の祖父にあたる。

 明治に入ると、九鬼隆義・白洲退蔵・小寺泰次郎は、困窮する旧三田藩の武士を救うために、「志摩三商会」という貿易会社を神戸で設立。食料品・雑貨・薬などの貿易で成功を収めました。

 志摩三商会の成功や、不動産・金融業で一躍大富豪となった小寺泰次郎は、その資金を元手に、予てから国際港としての素質を見出していた神戸の発展に多額の投資を行いました。現在の元町・三ノ宮の都市開発神戸女学院の前身である女子寄宿学校の設立にも関わっています。小寺泰次郎はこの相楽園の地から、現在に至る神戸の街の発展を見据えていたことでしょう。

 

③その後の相楽園

 さて、その後の相楽園は、1941年に小寺家から神戸市に引き渡され、中国の古書「易経」の一節「和悦相楽(和して悦び相楽しむ)」から引用して相楽園命名され、市営公園として一般公開されることになりました。1945年の神戸大空襲により被害を受けましたが、旧小寺家厩舎(国の重要文化財灯篭や門・塀などが遺り、貴重な文化遺産として神戸の歴史の1ページを現在に伝えています。

その文化的価値から、日本の文化財保護法に基づく登録記念物として、最初の登録物件となりました。

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出典:相楽園HP。(https://www.the-sorakuen.jp)現在の相楽園の上空からの写真。四季折々の美しさを楽しむことができます!

 戦後、神戸市の迎賓館として旧相楽園会館が1963年に完成し、55年間にわたり人々の交流の場として親しまれてきました。そして、2018年、より広くたくさんの人々にその魅力を発信するために、旧相楽園会館を活用する企業コンペが行われ、旧相楽園会館は、ウエディングやイベント、レストランやカフェとして利用される、THE SORAKUENとして生まれ変わることになりました。

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▲相楽園HP。THE SORAKUEN(旧相楽園会館)。1963年から55年間、人々の交流の場であった 旧相楽園会館をリノベーションし、2018年にTHE SORAKUENとして生まれ変わりました。和洋折衷の内装と、庭園とハッサム邸を背景に取り入れ、異国情緒の光が差し込むチャペルやパーティ会場は、神戸の歴史を見守ってきた相楽園に相応しい雰囲気。カフェ「相楽園パーラー」やレストラン「相楽」では、地元の食材を活かした絶品スイーツや 西洋料理が味わえます!

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▲出典:相楽園HP。船屋形。江戸時代に姫路藩主が領内視察や遊覧時に利用した、「川御座船」という軍船の上部構造を移築したもの。春慶塗りと黒漆塗りで塗り分ける総漆塗り、 また、金具には金箔が施されており、華やかに彩られています。明治時代に一度民家に移築され茶室として使用されていたそう。1980年に相楽園に移築 されました。国の重要文化財に指定されています。

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▲出典:相楽園HP。旧ハッサム邸。1902年にインド系イギリス人の貿易商人、J.Kハッサムが北野町に建てた住宅です。神戸北野町の異人館の多くを手がけたA.ハンセルの設計と言われています。1961年に当時の所有者であった神戸回教寺院が、神戸市に寄贈し、1963年に相楽園に移築されたました。明治時代の異人館の建築様式を今に伝える貴重な資料として、国の重要文化財に指定されています。

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▲出典:相楽園HP。旧小寺家厩舎。小寺家の馬の世話をするために建てられた厩舎です。明治〜大正にかけて活躍した、ドイツ風建築の第一人者 河合浩蔵の設計。小寺家が園内に建てた建築物の中で、神戸大空襲でも消失しなかった数少ない建物です。重厚かつ純度の高いドイツ風建築は、その文化的価値が 認められ、国の重要文化財に指定されています。

 相楽園を訪れてみて、併設の日本庭園や異人館と調和しつつ、和モダンでスタイリッシュな粧い、そして、カフェやレストランで味わうお料理も、”伝統tradition x 革新innovation”のコンセプトを美しく体現していると感じました。それが江戸までの日本の歴史と新たな西洋文化の融合を果たした大正ロマンのような雰囲気を醸し出していると感じます!!

 神戸の街の真ん中にありながら、暫し都会の喧騒や日常を忘れさせてくれるこの相楽園で、平和でロマン溢れるひと時を過ごしてみてはいかがでしょうか?!

 

余談:その時世界では

 小寺泰次郎によって、相楽園が造営され、神戸の街が発展を見せはじめていた19世紀後半、ヨーロッパはその繁栄が成熟期に差し掛かっていました。フランスでは、ゴッホゴーギャンセザンヌをはじめとしたフランスのポスト印象派の画家たちが活躍をし、リュミエール兄弟によって映画が発明されました。

個人的には、このようなヨーロッパの文化が成熟を表現している一方で、産業革命における貧富の差の拡大、帝国主義による領土拡張の限界、ナショナリズムの高揚や勢力均衡の世界情勢など閉塞感を孕んでいると感じます。この一見華やかな中に忍び寄る影のような寂しさを感じるのが、この時代の物悲しげな魅力であると感じます。

この19世紀後半には、戦争と動乱の20世紀の影も忍び寄ってきていました。ドイツでは首相のビスマルクが失脚。ビスマルク体制と言われ、ヨーロッパに安定と文化的成熟をもたらしていた勢力均衡状態が瓦解し始めます。また、アフリカにおける英仏の利権対立が頂点となったファショダ事件が発生しましたが、ここで勢力争いに折り合いをつけた両国は接近をし、急速に台頭するドイツへの警戒を強めていくことになります。

 

【商人旅】〜会津商人篇③〜 会津の旅の足跡(前編)

今回は、前回記事での宣言通り、白河での観光を終えてから会津若松への旅について語って行こうと思います。(白河の観光はこちらのリンクをご覧ください!)

 

またまた記事が長くなってしまいますので、2回に分けてお伝えします。長くなってしまい恐縮ですが、どうぞお付き合いください。m(_ _)m

 

・前編(商人巡り)

 1日目:大内宿・会津珈琲倶楽部・割烹田季野
 2日目:まなべこ・福西本店・清水屋跡・なかじま(カツ丼)・会津若松城

・後編(歴史定番スポットとグルメ)

 3日目:満田屋・飯盛山・御薬園・白木屋・會津酒楽館・渋川問屋

 

1.一日目

①大内宿

白河を13時ごろ出て、会津若松に続く道を2時間ほど進んだ中間地点に、大内宿(おおうちじゅく)という江戸時代に栄えた宿場町が遺っており、立ち寄りました。

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大内宿のオススメの写真スポット!江戸の雰囲気がよく出ています。

この地は、鎌倉〜戦国時代まで、藤原氏(秀郷の子孫)の子孫である長沼氏の支配下にありました。しかし、戦国時代に関東公方家と室町幕府の内乱である享徳の乱に巻き込まれた際に、滅亡してしまいます。

江戸時代に入ると会津藩領に組み込まれ、会津から江戸へ向かう道中に位置する宿場町として繁栄します。江戸時代は日光地震戊辰戦争も生き抜いた大内宿ですが、明治維新に入ると、新たな街道・鉄道の整備の中で近代化の波から取り残されてしまいました。しかし、そのことが却って、見事な茅葺き屋根の伝統的な町並みが残る要因となったのです。1981年に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

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大内宿のメインストリート。お土産やさんや蕎麦屋さんが立ち並ぶ。

 大内宿に着くと、まず山形屋さんで遅めの昼食(ねぎ蕎麦・イワナの塩焼き)を頂きました。

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麺が太めで固めに茹でてあります。出汁は素朴な味。ネギは少し辛かったですが、合間に味を変えるにはちょうどよかった。笑

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子持ちイワナの塩焼き。頭からガブっといけば、川魚の割に脂の乗った味に内臓の苦味と卵の香ばしさがGood!!!

続いて大内宿町並み展示館に行き、大内宿の歴史・昔の生活用品・茅葺き屋根の手入れ方法など、様々な説明を学ぶことができました。決して贅沢とは言えない生活様式の中に、豪雪地域の厳しい自然環境の中でもたくましく生きていた人々の息遣いや生活感を感じられるような、臨場感あふれる展示でした!

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大内宿町並み展示館には、茅葺き屋根の作り方や当時の日用品などの紹介がされている。

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茅葺き屋根の作業の手順が詳しく書いてあるパネル。他にもブースで実際の作業の様子が上映されています。



 

会津到着!会津珈琲倶楽部でコーヒーブレイク & 田季野輪箱飯で晩御飯

会津若松の町に入ると、いかにも城下町というような、同じようなやや狭めの幅でジグザグした道と、同じような広さの土地に建った建物が並ぶ街並みになります。(この独特の街並みの成り立ちについては前回記事ご参照ください!)

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会津若松城下に入って最初に印象に残ったのは、鉤の手十字路。蒲生氏郷公時代の町割りが見られる代表的な場所です!

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鉤の手十字路は、大町四つ角と呼ばれ、歴史の雰囲気のある商店街になっています!

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清水屋旅館跡。吉田松陰土方歳三新島襄・八重夫妻が訪れた記録があるそう。現在は大東銀行の建物になっている。



お昼が遅かったこともあり、お腹が空くまで會津珈琲倶楽部にて、素敵なコーヒーで一服。フェバーのようなシックでおしゃれな雰囲気で戴く一杯は、旅行気分を盛り上げてくれます!そして、ここのBGMが、1950〜60年代の古き良きアメリカの音楽で思わず聴き入ってしまい、その場で旅の想い出にダウンロードしました。笑

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会津珈琲倶楽部。綺麗な内装と拘りのコーヒーをいただきました。

さて、18時になりお腹の減りもいい具合になってきたところで、会津での最初の晩御飯に向かうことにしました!向かったのは、会津の歴史と文化を味で体感できるお店、ということで、会津郷土料理の輪箱飯の専門店、田季野輪箱飯さんです!店構えから歴史と拘りを感じることができる、重厚感溢れる料亭です!www.takino.jp

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田季野輪箱飯さん店内の様子。参勤交代に使われ、戊辰戦争の爪痕を遺す糸澤陣屋を移築した建物。陣屋時代には土方歳三も休んだとのこと。

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会津名物曲げわっぱの中にご飯を入れ、その上に海の幸・山の幸をふんだんに乗せた蒸しご飯。具材にその旨味が濃縮して閉じこめられている。一方でお米にはあまり出汁が染み込んでいる訳ではなく、それが却ってご飯本来の美味しさも損なわずに維持してある。ご飯と具材の存在感が両立している贅沢な食べ応えの逸品!

この輪箱飯は、噛みごたえのある会津若松の文化と歴史を象徴しているようで、これからの旅に向けてワクワクが増す素敵な晩御飯でした(^ ^) 

 

会津若松市歴史資料センター「まなべこ」

 

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会津若松市歴史資料センター「まなべこ」正面写真

今回の会津若松の旅の本番はここから始まったと言っても過言ではありません。旅の2日目のスタートは、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」様からです!

この資料館では、会津商人の歴史を中心に、郷土の特産品・偉人や江戸時代の町割りなど、貴重な資料が数多く展示されています。また、会津観光情報もあり、旅の計画を立てる為にも是非とも訪れて頂きたい場所です!!

資料の展示は一つ一つがカラフルでメリハリも効いていて、とても見やすい内容となっています。歴史に詳しい人もそうでない人も、会津について楽しんで学べる素敵な資料館だと思いました!

まなべこ館内のご案内 | 会津若松市歴史資料センター まなべこ

 

 

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江戸時代の会津若松の主な城下町。江戸時代、会津の名君と呼ばれる殿様は皆商業の振興に尽力しました。

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現在もお土産やお食事処が並ぶ七日町の、商家の店舗一覧が見れます。全国各地の地名に由来する屋号が多く見え、各地の商人が会津の地を有力な売り先として評価していたものと思います。当時の広告の役割のあった絵札はとても華やかで見応えがあります!また、右奥のパネルには、会津の偉人達の紹介があります。

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会津の特産、にしんの酢漬けと田楽。因みに器も、会津名物本郷焼き。

 今回は、会津商人を訪ねるというテーマで、会津若松を訪れたのですが、会津の商業について、貴重な情報を数多く伝えていただき、実りの多い取材となりました!!

 更に会津商人について深く学ぶために、その足跡が伺える歴史スポットとして代表格といっても過言ではない、福西本店様に向かいます!!

 

④福西本店

福西家は、会津において、江戸時代は綿古着を取扱う商家として活躍し、明治時代には問屋業・味噌醤油・漆器にも幅を広げ、最盛期には会津地方の銀行・鉄道・水力発電に強い影響力を持つ随一の豪商となりました。

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福西本店の正面。黒壁のシックな外観と明るい木と瓦の赤茶色のコントラストがおしゃれな建物。大正時代に現在の姿になったとのこと。まさに大正レトロの風情です。

この福西家が会津に来ることになった歴史的背景は大きく二つあるといわれています。一つ目は、戦国〜江戸初期に会津を支配した蒲生家とのコネクションです。福西家のルーツは、大和国(現在の奈良県)の宇陀郡福西(うだぐんふくにし)にあったとされます。同地は、古くから近江日野との繋がりが深い地域で、蒲生家とも浅からぬ縁があったと言われています。検断として大きな力を持っていた簗田家から、当時の城下の一等地に大きな間口を与えられるという破格の扱いもこれを裏付けていると思われます。

因みに、福西家は室町時代に権勢を誇った播磨守護の赤松氏の中に、大和国に領地を与えられ福西の姓を名乗った一族があり、その末裔と言われています。

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家の中で見つけた三つ葉柏の家紋。大和郡山藩主柳沢家から拝領したとのこと。発祥の地である大和国ですでに政界に強いコネを持っていたと思われます。

二つ目は、初代福西善照が仕えていた堺の商家の藤井家が、会津若松へ支店を出すにあたり任されたことが発端とされています。この藤井家は、古着を扱う商家で、かの有名な鴻池家とも張り合えるほどの商勢があったと文献に記述されているそうです。

幕末の戦火に巻き込まれ、会津藩へ用立てた資金の貸し倒れや、略奪の被害で苦境に陥りますが、明治〜大正にかけて7代妻イネ・8代善運・8台妻フサの元で見事立て直し、一族の多くを地元の有力な商家を継がせるなど、最盛期の下地を築きます。現在にも残っている風格ある店構えは、この時代に作られたものです。

そして、9代の善真は、会津銀行の設立や鉄道・電力業にも手を伸ばすなど、福西家の最盛期を現出し、会津有数の豪商となります。 

しかし、10代善徳以降は芸術方面へ出費がかさみ、それ以降の店主も早くに亡くなるなど、商勢が再び戻ることもなく、戦後日本の社会変動に適応できないまま、会津若松まちづくり(株)に家を譲り渡すこととなりました。 

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福西本店の内部の様子。木材の暖かい色調に囲まれて、大正ロマンの時代にタイムスリップしたような感覚になります!

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福西家は、江戸時代の多くの商人と同様に、浄土真宗を信仰する商家でした。家の中に仏間が作られており、親鸞聖人の真筆とされる書が掛け軸として展示されています。

 

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左の寄木細工飾棚は、パリ万博に出展されていたものを、福西家が買い求めたとのこと。

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大広間には、当時の最高級の木材がふんだんに使用された重みのある空間となっている。

 

5.なかじま(カツ丼)・清水屋跡・会津若松城

さて、取材をしっかりさせて頂き、お腹が減ったところで、この日の昼食は、会津若松ソウルフード煮込みソースカツ丼!大正〜戦後にかけて東京の洋食文化を取り入れ、ソースで煮込むアレンジを加えて完成したのだそう。

今回は、福西本店の方にオススメ頂いた、なかじま、というお店でいただきました!こういうのは、地元の方にお聞きするのが一番ですね!!

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ソースは甘口で出汁に近い感じ。卵とカツを一緒にソースで煮込んでいるよう。ソースの味が染み込んだ卵が全体に広がることで、満遍なくソースの味が行き渡っている。肉も脂気や筋が少なく食べやすい。米の香りも良く最高!!

 

 6.会津若松城鶴ヶ城

腹ごしらえを済ませると、満を持して会津若松城鶴ヶ城に向かいます!

鶴ヶ城は今までの記事にも書いてきましたが、会津の誇る難攻不落の名城です!元は蘆名氏の居城、黒川城として14世紀から会津の中心地として栄えていました。蒲生氏郷会津の地に来て改築し、加藤家の時代に現在の姿になったとのことです。

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会津若松城鶴ヶ城)の全貌!(スミマセン、この写真、3度目の使用です!(;▽;))

7層の壮麗な姿で権威の象徴としての役割だけでなく、会津戦争においては新政府軍の猛攻にも1ヶ月耐えた、文武を兼ね備えた日本屈指の名城です!

明治に入って取り壊されましたが、その後、人々の寄付により昭和40年に蘇り、平成23年には幕末時代の赤瓦を再現した姿になりました。そして、最上階では、会津の城下町を一望できる絶景が見えます!!

 

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会津若松城から見下ろした景色です!壮観!ここから見れば貴方も大名気分?!(;▽;)

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会津若松城から見下ろした景色その2。 城の上から町を見下ろすことは旅行すればちょいちょいあるのですが、特に見応えがある気がします。城の高さといい、町の規模の大きさといい、きっと一番見応えのあるバランスなんでしょう!



さて、今回の記事は、会津旅行の1〜2日目をまとめました!会津商人にスポットを当てた旅にしようと計画を立てていたので、計画的に巡ることができたと思います。

まなべこ様で展示されていた、藩校の設立に会津商人が携わったエピソードや、福西本店の地域に根ざした商売の歴史などを見ていく中で、今まで見てきた地方の商人たちの中でも、特に会津商人は地元への忠誠心や愛着が強い商人であると感じました。

(その歴史的背景については、前の記事にても考察してみましたので、是非読んでいただければと存じます!)

 

この日は、まなべこ様と、福西本店様を立て続けに取材にお伺いしたのですが、非常に密度の濃い取材となりました。このような無名の駆け出しブロガーのためにお時間を取っていただき、大変有り難い限りでした!本当に有難うございます。

次の記事は、会津編の最終回、旅の3〜4日目の内容になります。乞うご期待ください!!

 

余談:その時世界では

会津若松城が、明治新政府軍と会津藩の激戦となっていた1868年、アメリカでは米国憲法修正第14条が批准されました。南北戦争が集結して3年が経ち、元奴隷の権利を確保することを意図して作られた条項となります。しかし、南部の社会では引き続き白人とそれ以外の人種の隔離が維持され、KKKなどを生み出す土壌となり続けました。これらの問題の改善は、1950年代のキング牧師の活動に代表される公民権運動までなかなか前進することがありませんでした。 

【商人旅】〜会津商人篇②〜 蒲生氏郷と保科正之、そして藤樹学

随分と時間が開いてしまいましたが、いよいよ会津若松についての記事に入ります!調べれば調べるほど、会津の歴史は興味深く、ついつい記事が長くなってしまったので、会津篇は、2回に分けて、下記の流れで追っていきたいと思います。

 

今回記事

1.戦国から江戸時代への橋渡しをした、蒲生氏郷(がもううじさと)

2.会津松平家225年間を支える屋台骨を立てた、保科正之(ほしなまさゆき)

3.江戸時代後期の会津藩会津商人

4.明治維新後〜今に遺る会津商人の足跡

 

次回記事

1.会津の商人・歴史スポット記録(仮)

2.会津のグルメスポット記録(仮)

 

1.戦国から江戸時代への橋渡しをした、蒲生氏郷(がもううじさと)

 会津藩の歴史を語る上で、豊臣天下の時代に会津を治めた蒲生氏郷の治世から話を始めたいと思います。

蒲生氏郷は、戦国末期の近江日野出身で、最初は六角氏に仕えていましたが、父が近江を攻略した織田信長に降り、氏郷は人質として信長の側に付き従うことになります。当時から、文武ともに並々ならぬ才覚を見せていたようで、織田家中の次世代を担う逸材として期待されていたようです。

氏郷は織田信長の元で政治手腕を学んだと思われます。後に氏郷35歳の時、天下を統一した豊臣秀吉の命により、会津の地を治めた際の鮮やかな政治手腕は、安土城を築くことでその威光を天下に知らしめ、楽市楽座を奨励し経済の活性化を目指した織田信長のそれと非常に似ていると感じます。氏郷は、40歳の若さでこの世を去ることになりますが、僅か5年の会津での治世の間に行なった政策は、現在の会津若松の基礎を築いたものとして、非常に高い評価を受けています。

では、そんな蒲生氏郷の統治を、会津商人の関係にも触れながら、纏めたいと思います。

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蒲生氏郷肖像画(引用:Wikipedia

 

鶴ヶ城の大改築

 蒲生氏郷は、秀吉の命を受けて会津に着任してから僅か1年余りの間に、かつての蘆名氏時代の姿のまま受け継がれていた黒川城の大改築を行います。ここに姿を現したのは、7層の天守を持つ本格的な近世城郭で、蒲生家の家紋に因んで鶴ヶ城と改名されました。また、地名もそれまでの“黒川”から、氏郷の郷里に因んで、“若松”に変えました。

 天守閣を持つ城は、戦国末期からの主流となりつつあった城の形態で、軍事よりもシンボルとして求心力を高める政治的な目的が強いとされています。会津の地に、「我こそは新たな支配者である!」と宣言することで、リーダーシップを発揮する下地を整えたのです。

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蘆名時代からあった黒川城を蒲生氏郷が改築し、天守閣を備えた壮麗な城”鶴ケ城”となった。最終的には加藤家の統治時代に現在の姿になったとのこと。後に会津戦争で明治政府軍の1ヶ月に渡る猛攻にも耐え続け落城しなかった、文武を兼ね備えた、日本屈指の名城。

②城下町の拡大

 蘆名時代に築かれた城郭は、手狭になっていたため、城下町の建設にも乗り出します。まず、車川を利用した外堀を築きました。そして、外堀の内側にあった神社や寺を外に出し、代わりに家臣を内に住まわせます。更に、外堀の外に庶民を住まわせることで、街が発展する余地を生み出し、要所に寺社や寺を配置するなど、現代に残る会津の町を整備しました。

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大町四つ角商店街。現在まで残っている蒲生氏郷の城下町整備の町割り。鉤の手の形に作られた十字路には様々な狙いがある。水路の水が壁にぶつかり左右に分かれ街全体に行き渡るように、敵から攻められた際の防衛に役立つように、更に二本松・白河・米沢・越後・南山の主要五街道の基点になるように、設計されている。会津の人々には、この五街道を総称して、下野街道や会津西街道と呼ばれ親しまれているとのこと。なかなか見事な鉤の手型の十字路で、カッコ良かったです!

 

③商工業の奨励

 上述の城と街を整えると、今度は商業の振興にその辣腕を振るいます。

まずは、経済システムの構築です。十楽と呼ばれる、楽市・楽座を発展させた商業政策を行い、毎月、1〜10日それぞれの日を定めて6箇所で市を開くこととしました。また、人材育成にも力を入れます。蒲生氏郷の故郷である近江日野から、優れた商売センスを持つ近江商人を呼び寄せ、彼らの販売ノウハウを活かした、商業の発展を目指しました。例えば、倉田家は、氏郷の招聘で会津の地にやってきたという説が有力で、「四検断(後述)」の一角を占める豪商となりました。

 その一方で、会津では、簗田家・坂内家、小池家をはじめとする、蘆名時代からの世襲の商人が強い力を持っていて、地域の商人たちを束ねていました。氏郷は、その伝統的地位を温存するだけでなく、連れてきた近江商人達には、これからは会津商人と名乗るように命じるなど、まさに温故知新の精神で、地元の人々との融和にも心を砕きました。

 ここに出てきた、簗田・坂内・小池・倉田の豪商家は、江戸時代を通して「四町検断」の役職を世襲し、税収・訴訟・戸籍の管理・政令の伝達を取り仕切りました。このように会津商人は、官民のつなぎ役として会津の行政に於いて重要な役割を担いました。

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会津若松市歴史資料館「まなべこ」様で展示されている、七日町の古地図。七日町は、今もJR七日町駅から伸びる道沿いに、土産物や会津の特産品を取り扱う店が軒を連ねる。一番右の大きな敷地には検断の簗田家と倉田家の名前が見え、道沿いには、近江屋、高島屋などいかにも近江商人と繋がりがありそうな名前の商家が見える。他にも、山形屋・新潟屋・伊予屋・堺屋などの名前が見え、全国各地から商人が出店して賑わっていたのでは、と想像が膨らんでくる。

 

④産業の育成

 蒲生氏郷が着目し、素地を作った代表的な特産品として、会津会津絵蝋燭日本酒が挙げられます。

元々、蘆名氏の時代に漆の樹の栽培が奨励され、樹液からは漆器、実からは蝋燭が作られる様になっていました。氏郷はこれに注目しました。前述した通り氏郷の出身地は近江であり、その商勢を振るいつつあった近江商人に強いコネクションを持っていました。そして、近江商人の主力商品にも、漆器や蝋燭があったのです。氏郷は、近江から高い技術を持つ漆器や蝋燭の職人を呼び寄せ、現代に続く会津塗と会津絵蝋燭の素地を生み出しました。また、日本酒についても、同じく近江から杜氏を招く事で、当時は上方でしかまともに生産されなかった日本酒の生産に力を入れました。

この様に氏郷は、政治・市場機能を整えた上で、特産品を作る事で会津の経済力の基盤を作る事を目指したのです。

 

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会津塗(出典:白木屋漆器店様HP)1800年代初頭に完成したと言われる会津の伝統的な絵で、会津絵と呼ばれる。桧垣、松竹梅、破魔矢などの文様で構成され、松は常に変わらぬ平安、竹は風雪にも耐えうる力、梅は寒さの中で放つ清らかな香りを表現し縁起物の破魔矢と合わせることで、人生の門出や一期一会を大切にする精神をが現されている。

 

会津絵ろうそく祭り(引用:会津若松観光ナビ様)会津若松の冬の風物詩で、鶴ケ城や御薬園など、会津の各所で計約1万本もの会津絵ろうそくが灯され、暖かい光に包まれるとのこと。 

 

蒲生氏郷の政策をまとめると、ハード面(城郭・城下町の整備)、ソフト面近江商人の招聘・既存の商人の活用、市場の制度)を整え、製品会津塗・会津絵蝋燭・日本酒)を生み出して販売を奨励するという、現代の企業にも近い経営感覚を持ち合わせた、理論的かつ革新的な大名であったと言えると思います。 

この蒲生氏郷が築いた基礎があったからこそ、会津は戦国末期〜江戸初期にかけての激動の時代の荒波を耐える事ができたのかもしれません。

 

2.会津藩松平家225年を支える支柱を立てた、保科正之(ほしなまさゆき)

 その後、会津を治めた大名は、戦国〜江戸初期の激動の影響を受けたのか、長続きしませんでした。君主を上杉氏・蒲生氏(第2次)・加藤氏と頻繁に藩主が変わった後、日本史上屈指の名君と名高い、保科正之によってようやく落ち着きます。(会津松平家始祖)

 保科正之は、江戸幕府2代目将軍秀忠と後北条氏旧臣の娘との間に、ご落胤として生まれました。その出自のため、幼少期は存在を隠され保科氏の養子になっていました。

 その後、偶然にその存在を知った後の3代目将軍家光と対面し、正之は大いに気に入られたそうです。家光が将軍になってからも、真面目で有能な正之は絶大なる信頼を寄せられ破格の待遇を受けました。家光亡き後も、4代目将軍家綱の後見人として、幕府の政治の中枢を担い、災害・公共事業などに尽力して、幕府それまでの武断政治から文治政治への転換を実現し、江戸幕府265年の平和の礎を築きました。その功績から、松平姓を許され会津松平家の祖となっています。

 そんな正之が任された会津の地は、江戸から遠く離れた東北の地、特に北の最大の外様大名仙台藩伊達家を睨む地理的要衝にあり、幕府からの信頼の厚さが伺えます。ここでは、保科正之会津の地で行なった政策を会津商人との関係についても触れながら纏めます。

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保科正之肖像画(引用:Wikipedia)

①政治体制の改革

 江戸時代初期、各藩の給与体制は、地方知行制が主流でした。これは、家臣に土地と付随する百姓(地方)を分け与え、その土地での経営と年貢の徴収(知行)を任せる、言わば旧来の封建的システムです。この体制では、組織体制のヒエラルキー化が進み、藩主が直接指示を出すことができる直属の家臣が少なくなります。

 正之は、これにメスを入れ、蔵米渡し制に移行します。これは、藩が土地を一括で経営し、家臣の身分に合わせて、収入を配分するシステムです。これにより直轄地と直属の家臣を増やすことに成功し、中央集権化を達成しました。

 

蒲生氏郷の商業政策の踏襲とアレンジ

 正之は、蒲生氏郷時代から重きをなした商家、特に簗田家を中心とした検断を温存し商業政策を踏襲します。これは、既に確立していた会津の商習慣を活用することで、物資の需給や価格などの統制を取りやすくする狙いがありました。

 また、新たに追加された政策として留め物・津留があります。これは、藩の許可がないと、藩外に輸出できなかった制度で、対象は特産品や必需品でした。これも需給や価格の統制を取るために行われた施策です。

 

③常平倉・社倉

 正之は、上記の留め物・津留にもあった通り、物資の需給・価格の安定化に心を砕きました。その中でも、米に対しては特に力を入れ、常平倉・社倉を導入しました。常平倉は公費・社倉は庶民のお金で運営される米蔵で、豊作の年は米を買い入れ備蓄し、不作の年は米蔵から流通させることで、米価の安定と飢饉対策を行いました。

のちに述べる、家訓十五条には社倉についてこの様に述べられています。

『一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。』

 

④家訓十五条の制定

 正之は、以降の藩主とその家臣達が守るべき掟として、家訓十五条を制定しました。天皇を敬い、幕府に忠節を誓うこと、上下身分をわきまえる事、公正な政治を行い法に従う事、秩序や組織を乱してはならないことなど、言わば会津藩の経営理念となる重要事項を十五箇条に渡って纏めています。

 

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。

一、兄を敬い、弟を愛すべし。

一、婦人女子の言、一切聞くべからず。

一、主を重んじ、法を畏るべし。

一、家中は風義を励むべし。

一、賄を行い、媚を求むべからず。

一、面々、依怙贔屓すべからず。

一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。

一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。

一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。

一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。

一、法を犯す者は宥すべからず。

一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。

一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。

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会津若松市では、2002年に「あいづっこ宣言」が策定されている。これは家訓十五箇条を現代に合う形にアレンジしたもので、会津の子供達に、心を豊かに育みながら、会津の歴史や文化を受け継いで欲しいという願いが込められている。

④学問の普及

 正之は、藩学(藩が公認する学問・思想)を朱子学としました。朱子学は、儒学の一派ですが、上下身分や秩序を重んじる学問で、家訓十五条の精神もこの儒学の影響を色濃く反映しています。正之は、藩の教育水準を高めるべく、豪商倉田家出身で著名な儒学者である横田俊益(よこたとします)を起用します。横田俊益は稽古堂を設立し、そこでは儒教・詩文・国文・医学など幅広く講義が行われました。身分を問わず様々な人々が集まったので、一般庶民に向けた日本最古の私学校と言われています。

 一方で、心学(庶民の間で流行った学問)は、近江聖人と呼ばれた中江藤樹を始祖とする藤樹学(陽明学でした。江戸時代初期に、会津から若い優秀な町医師が京都に学問に行き、この藤樹学を学んで持ち帰ってきた事が始まりです。実は、この藤樹学は、朱子学を批判する形で生まれた学問であるため、一時は禁止されましたが、会津で行われた学問は、専ら庶民の道徳教育にのみ主眼が置かれている事が理解され、禁止が解かれる事となりました。

藤樹学の学者は、庶民からも尊敬の眼差しで見られ、藩の統治にも大きく貢献したために藩から表彰される人物もいたそうです。

 

このように、保科正之は、家臣への給与体系の整備・領民の食料などの生活安定・教育水準の確保・家訓による藩の理念の明確化など、人々の生活を安定させ、指針を定め導くシステムを構築する事に長けた指導者でした。このような仕組みが最も優れている点は、代が変わっても安定した統治・経営を継続する事ができるという点です。彼が構築した優れた藩の組織こそが、会津藩を以後220年以上に渡り力強く支える屋台骨となったと思います。

 

3.江戸時代後期の会津藩会津商人

 さて、本当は江戸時代後期の会津藩会津商人についても語りたいのですが、今回の旅行時には知識がなかった事もあり、事前に取材コースに組み込むことが出来ませんでした。また、改めて会津を訪ねる際のお題として、ここでは項目と概要の紹介に留めておきたいと存じます。

・松平容頌と家老田中玄宰

5代目藩主松平容頌(まつだいらかたのぶ)田中玄宰(たなかはるなか)は、天明の大飢饉や藩の赤字財政の苦境から、会津藩を立て直した中興の立役者です。蒲生氏郷保科正之時代に生まれた特産品に更に改良を加え、更に養蚕薬用人参といった新たな特産を育てたことで知られています。また、会津藩士のための学問所、日新館の建設とその過程で大活躍した会津商人の須田新九郎の物語など、興味深いエピソードがたくさんあります。

youtu.be日新館の上空からの撮影動画(引用:會津藩校日新館様HP)会津藩藩士は10歳を迎えると、日新館で文武の修練を積んだ。武術や医学、天文学のみならず、水練用のプールまで完備されており、学生も1000人以上に及んだ。優秀な学生は江戸や他藩への留学も許されたとのこと。

・藤樹学

前述の通り、会津の心学の主流は藤樹学と言われています。藤樹学は、利己主義を捨て、利他の精神を持つことを中心とした教えです。喜多方から京に学びに行った町医者たちが持ち帰ったことをきっかけに、喜多方を中心に地元の農民・商人・男女を問わず、一般庶民の教養として広く広まりました。

実は、近江商人三方よしに代表される精神も、この藤樹学にルーツがあるとされており、ここでも近江と会津の深い縁を感じずにはいられない発見で、非常にテンションが上がりました!!

この話をもっと深掘りしたかった!改めて会津に行く際は、喜多方にまで足を伸ばして藤樹学巡りをしたいです!

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以前、近江八幡市に旅行に行った際に、駅のロッカーで見つけた近江商人語録。近江商人も、”利他の精神”、”人として正しくある事”を非常に大切にしている事がわかる。

豊臣政権末期に、蒲生氏郷によって会津にやってきた近江商人の技術、そして江戸時代初期に会津に持ち込まれた藤樹学。近江発祥の文化や思想が、別々のルーツを辿って、会津の地で再び巡り会っていました。

このような、奇跡の巡り合わせに出会える事が、歴史を学ぶ上で最もスケールとロマンを感じる瞬間だと思います!!

 

 

4.明治維新後〜今に遺る会津商人の足跡

幕末から明治にかけての会津では、会津藩会津戦争に敗れたことで、鶴ケ城御薬園土津神社といった、今に遺る歴史遺産や土地が明治新政府軍に略奪・接収され、荒廃していました。これに対し、古くからの会津の豪商達が私財を投げ打って、明治新政府からの土地の買い戻しや復興に貢献しました。

また、江戸時代の商人によくあることですが、藩や幕府と深くつながることで地位を築き上げた商家は、時代の変化に際しては政策や政権の変化の影響を大きく受けてしまいます。藩や藩士へのお金の貸し倒れなども多かったことでしょう。会津戦争会津藩が敗れたことは、大きな痛手となったようです。

これらの事が、結果的に会津の豪商達の経営悪化と没落の一因となり、会津商人の記録の多くが失われてしまいまったと言われています。しかし、会津商人達は、明治維新の激動の時代に、自らの身を捨ててでも、会津の誇りを守り後世に受け継いだ立役者と言えるでしょう!

しかし激動の時代を経てもなお、会津商人の足跡を今に伝えてくださる方々が多くおられます。この旅では、そんな会津商人スポットを主に巡ったので、次回記事にて、書く事ができればと思います。

 

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御薬園の美しい日本庭園。元は蘆名氏の別荘だった。2代目藩主、保科正経が、病気に苦しむ領民を救済するために、薬草の栽培を始めたたことから、この名がついた。

以上のように、今回の記事では、会津商人について、日本屈指の名君と名高い、蒲生氏郷保科正之の両君の統治との関わりを中心に述べました。

先ほども少しだけ述べました通り、次回の記事では、実際に訪れた会津の名所や食べ物を中心に、旅の記録をメインに纏めた記事にしたいと思います!

 

余談:その時世界では

蒲生氏郷保科正之会津を治めていた16世紀末〜17世紀後半

ヨーロッパでは、ドイツ発の宗教改革の波がフランスに到達しており、フランス王家が保護するカトリックと新興宗派のプロテスタントの戦争である、ユグノー戦争が終盤を迎えていました。それまでの様に、プロテスタントを弾圧することでは抑えきれなくなっていたフランス王家は、1598年にナントの勅令でプロテスタントを公認することで、ユグノー戦争の収束に向かいました。

各自の職業を神から与えられた天職とし、善行(商売)の積み重ねにより神から救済されると説いた、プロテスタントの思想は、金儲けは悪として忌み嫌っていたカトリック社会の教義を大きく覆すものでした。

この商業の宗教的正当化が、17世紀にルイ14世重商主義政策によるフランス最盛期の現出、さらには18世紀の西欧資本主義の発達にまで行き着く大きな時代の胎動を生み出す契機となりました。

実は、この商業に対する宗教観の改革は、江戸時代の日本においても仏教や心学の中で起きており、江戸時代の商業の活性化に貢献していました。

さらに言うと、私は、明治維新後の日本の急速な近代化は、日本で起きたこの“宗教改革”がもたらした、西欧資本主義に対する親和性が、大きな役割を果たしていると考えていて、これについてもいつか語ってみたいと思います!

【商人旅】~会津商人編①~ 会津の玄関口、白河を訪ねて

今回の旅は、福島県白河市会津若松市の2箇所の旅となりました。この旅について、以下の3章に分けて記事にまとめたいと思います。

 

第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて

第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学

第3章:今回の旅で出会った歴史スポット・グルメ(前編・後編)

 

そして、今回の記事は「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」にあたるわけですが、以下の流れで勧めたいと思います。

1.会津の歴史概要

2.白河の関

3.小峰城

 

1.会津の歴史概要

 まず、今回の旅についてお話しする前に、会津の歴史をざっくりとまとめてみました。

 

飛鳥・奈良時代

会津の地名が出てきた文献として最も古いものに、『常陸国風土記』があります。そこには、7世紀中ごろ有名な大化の改新で確立した律令制度によって成立した陸奥国の一部として、会津評(あいづのひょう)が設置されたと記載されています。この時期に会津地方は、本格的に大和朝廷の治めるところとなったと思われます。

 

平安時代

11世紀の前九年・後三年の役において、奥羽で強勢を誇り朝廷と敵対関係にあった安倍氏清原氏との戦に向かう源頼義源義家が、2代に渡って白河や会津を訪れ、戦勝祈願のために神社を造営したとの言い伝えがあります。

大和朝廷の支配がより北方に及ぶにつれて、陸奥国も北へと拡大していきます。その中で軍事拠点としての機能はさらに北に位置する多賀城へと移っていきますが、会津地方、特に白河は、古来より続く要衝としての歴史をこの先も歩んでいくことになります。

 12世紀に起きた源平合戦においては、当時、天台宗真言宗と肩を並べた法相宗慧日寺(えにちじ)会津地方随一の有力勢力でした。彼らが平氏側に味方したことにより、会津は平家の勢力下となりました。 

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古代における陸奥国の拡大

 

鎌倉・室町時代

鎌倉時代に入ると会津の地は源氏方の領するところとなり、源氏に味方して源平合戦奥州合戦で戦功を挙げた三浦氏に、会津の地が恩賞として与えられました。彼らは後に蘆名(あしな)氏を名乗るようになります。これが後の戦国の世に伊達氏と並び称される南陸奥の雄、蘆名氏の起源です。

蘆名氏は鎌倉・室町・戦国時代と約400年もの間、会津の地を治めます。室町時代には、黒川城(後の鶴ヶ城を築き、会津若松市の起源となります。

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黒川城(現在の名称は、鶴ヶ城または会津若松城

戦国時代

16世紀、戦国時代に登場した蘆名盛氏(あしなもりうじ)の頃に、蘆名氏は最盛期を迎えます。

南は常陸の佐竹氏、北は米沢の伊達氏と、これまた平安・鎌倉時代から続く名門かつ強力な戦国大名に挟まれながらも互角に渡り合い、蘆名家の最盛期を現出しました。

また、猪苗代の金山開発や、商業を育成し会津商人の起源を作るなど、内政にも手腕を発揮しました。蘆名盛氏は、現在の会津の原型を形作った功労者と言って差し支え無いでしょう。

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戦国時代の会津周辺のおおまかな勢力図

しかし、伊達政宗の登場によって、伊達氏は急速に力をつけ、この南奥羽のパワーバランスが大きく変わることになります。蘆名氏は、常陸の佐竹氏と同盟を結んで伊達政宗に対抗するも、ついに1589年の摺上原の戦い伊達政宗によって滅ぼされることとなりました。

更に、この僅か1年後には、豊臣秀吉が後北条家との戦を圧倒的優勢で進めており、全国統一を確固たるものとしつつありました。この秀吉には伊達政宗も屈服せざるを得ず、会津の地は、秀吉の随一の重臣である蒲生氏郷(がもううじさと)が治めることとなりました。蒲生氏郷は近江を治めた経験を生かして、黒川城を大改修して鶴ヶ城とし、城下町の整備会津の商業を強化に尽力する等、会津の地を豊かにする礎を築くこととなった人物です。

 

以上が、会津が歴史の表舞台に登場してから戦国時代に至るまでの歴史概要となります。

これ以降の歴史については、次回掲載予定の記事(第2章)で、会津商人に焦点を当てつつお話できればと思います。

 
2.白河の関
さて、ここからようやく今回の旅のお話をさせていただきたいと思います。まずは、会津はもとより、奥州の玄関口として、幾度も歴史の重要な通り道となった白河の関から旅をスタートしました。
白河の関は、JR東北本線もしくは東北新幹線新白河駅から車で20分のところにあります。

白河市街地から出るとすぐに、なだらかな山々を背景とした田園風景が現れますが、すぐに林の中を蛇行して抜ける道が始まります。その道には、深い緑のこんもりとした木々が、道に不揃いに道に競り出そうとしています。まるで、奥州の自然が、人間の侵入に抗っているかのように感じます。さらに進んで白河の関が近づくにつれ、林を道沿いに切り開いた土地に、ようやく少しずつ民家が現れるといった具合です。おそらく古代・中世における奥州は、このような生命力あふれる自然に阻まれ、交通・交易ルートは非常に限られていたのでしょう。

白河の関へ向かう道路、伊王野白川線(Google Map)

https://www.google.co.jp/maps/@37.0790188,140.2224426,3a,75y,216.63h,95.42t/data=!3m7!1e1!3m5!1sQHU0JDyIOn7v_K5FHAHSfA!2e0!6s%2F%2Fgeo3.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DQHU0JDyIOn7v_K5FHAHSfA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D145.03291%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656?hl=ja

 

白河の関に到着すると、そこは太古の歴史を感じる神秘的な世界でした。

関所としての白河の関は、平安時代太政官の記録にも残っており、7、8世紀には既に存在していたものと思われています。しかし、発掘調査からは縄文時代の土器や鉄器、家事工房跡も発見されており、現存する記録よりも遥か昔からこの地に人が住み拠点として機能していたことが示唆されています。

この場所には、前九年の役で活躍した源義家や、源平合戦に兄源頼朝の元に駆けつけようとする源義経、また奥州藤原氏を攻める源頼朝も、この地を訪れたとのことです。

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入口から既に神秘的な雰囲気に包まれている、白河の関

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入口から奥へと誘うような、緩やかな階段がみえる。

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階段を上がると、奥に白河神社がひっそりと佇んでいる。

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源義家が幌をかけて休息をとったといわれる楓。

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源義経が射立てたと伝えられる松(根株)。

このように白河の関は、自然に囲まれて、尚且つ神秘的なエネルギーを感じられる特別な場所でした。奥州の玄関口として、また政治的にも人心に訴えかけるに相応しい風格を持っていました。さぞや当時の奥州統治に必要不可欠な場所であったのだろうと、想像力を掻き立てられるには十分で、歴史ロマンを満喫できる場所でした。


3.小峰城
白河の歴史を訪ねる上で、もう1箇所欠かせないのが、日本100名城にも数えられる小峰城(こみねじょう)です!鎌倉時代に、奥州合戦での功績を認められた結城(ゆうき)氏が白河の地を与えられ、戦国時代まで統治しましたが。その間に14世紀ごろ建てられた城と言われています。

しかし、豊臣秀吉小田原征伐に参戦しなかったことから、結城氏は改易されます。代わりに蒲生氏郷会津と白河の地が与えられますが、息子の代にお家騒動で転封。その後に上杉景勝が領したものの関ヶ原の合戦で西軍に与したことから米沢に転封。再び蒲生氏が復帰するも嫡子に恵まれず断絶と、君主が頻繁に変わる土地でありました。

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太鼓門跡方面から見た小峰城

江戸時代に入って、白河藩が成立しますが、240年の間に7家もの藩主が入れ替わり立ち替わり統治するなど、相変わらず目まぐるしい君主歴を辿ります。しかし、白河を任される家は、親藩・譜代という徳川家にとって信頼できる大名家ばかりで、いかに江戸幕府にとって重要な土地であったかが伺えます。中でも初代藩主であった丹羽長重(にわながしげ)や、老中まで上り詰めた、松平定信(まつだいらさだのぶ)阿部正外(あべさだとう)など、名君も数多く生まれました。

 さてその中で、現存する小峰城や白河の基礎を作ったのは、築城の名手、丹羽長重です。小峰城の魅力は、何と言ってもこの石垣の美しさ!ただ美しいだけなく、隙間なく石垣を敷き詰めることにより、敵がよじ登る際に手をかける隙間を減らし防御面でも非常に理にかなっているとのこと。

併設している小峰城歴史館には、当時の城の内部を再現した大掛かりなCGドキュメンタリーが上映されており、見応え十分ですので、是非おすすめです!

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この美しい石垣!!!

白河藩は、戊辰戦争においても、その土地の戦略的重要性から、新政府軍と会津藩を中心とする旧幕府軍との間で激戦地となりました。のちに白河口の戦い」と呼ばれるこの戦いは、100日間にも及ぶ激戦の末、新政府軍側が勝利、小峰城は甚大な被害を受けました。

付近の山では多数の弾丸が飛び交う死闘が繰り広げられており、後に城の修復作業を行う際に伐採した杉材から弾丸が数多く見つかりました。その一部が床や柱に弾痕という形で残されており、戦闘の激しさを物語っています。

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床に使用されている杉材に残っていた弾痕

 

以上が、今回の記事、「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」です。

このように白河は、地理的に非常に重要な土地であったため、数多くの歴史ドラマが秘められた場所でした。また、白河の関小峰城も、非常にコンパクトに整備されていて、それでいて当時の状態を今に伝える雰囲気や、解説も充実しています。非常に観光し易い街で充実した旅となりました。

次回記事は、いよいよ会津若松に到着します!「第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学」もどうぞよろしくお願いいたします。

また、道中に白河ラーメンや福島県産の桃も食べたのですが、この感想については、「第3章:今回の旅で出会ったグルメ」に記載しようと思います!

 

余談:その時世界では

 

白河の関陸奥国の抑えとして重要な役割を担っていた8世紀、

世界ではイスラーム帝国(ウマイヤ朝)と唐王朝が全盛期を迎えていました。

イスラーム帝国は、第5代カリフ、アブドゥルマリクの元、アラビア語公用語化、アラブ貨幣の発行と、言語・経済の統一化が達成され、大いに発展しました。その支配領域は、西はウズベキスタン、東はイベリア半島まで跨る大帝国となりました。

唐王朝玄宗皇帝のもと、仏教改革や税制改革、節度使の導入など、開元の治という中国史上稀に見る安定期を実現します。首都の長安の人口は100万人に到達したと言われています。

この両大帝国の誕生が、西はローマ〜東の長安に至る商業ルート、シルクロードの安定化を実現し、世界規模の商業の活性化を促しました。

 

小峰城丹羽長秀によって現在に残るその姿を見せた17世期前半、

中国では明王朝が衰退し、後に清王朝を打ち立てる満州族の国、後金がその勢力を拡大していました。

また、中東ではトルコのオスマン帝国の全盛期で、現在のトルコ・バルカン半島・中東の大半・アラビア半島・エジプト・北アフリカがその支配下にありました。のちの歴史学者がパックス=オトマニカと呼ぶほど、平和な時代でした。

一方で、ヨーロッパはドイツで勃発した三十年戦争の戦乱の真っ只中で、「北方の獅子」こと、スウェーデングスタフ・アドルフが三兵戦術という当時画期的な戦術を編み出しスウェーデン王国の全盛期を築きました。因みにこの三兵戦術は約200年後に登場するフランス皇帝ナポレオンに多大な影響を与えることになります。

【番外編】今後の方針及び訪問予定

このご時世で旅行できない日々が続いていますね。もともと2、3ヶ月に一回は歴史旅をして、1年で1時代巡ろうと考えていましたが、現実的ではなくなっています。

それでも、歴史旅自体は、安全に配慮しつつ、軌道修正のうえ可能な範囲でやって行こうと思います!

今後の方針としては、2シリーズに分けてブログを書いていきたいと思います。

 

一つは、【時代旅シリーズ】。

これは、今までの方針である、日本史を弥生時代から1時代ずつ辿っていく旅です。ただし、旅行は今後コロナの状況に左右される事から、1年1時代のペース縛りは諦めます。

その代わり、予め1時代を語る上で行きたい場所を決めておいて、可能な範囲でゆっくりと巡っていく方針にします。

後ほど、今後の訪問候補地を紹介します。


二つ目は、【商人旅シリーズ】。

決して商人になって地方巡業するわけではなく(笑)、日本各地の商人の歴史を探索するシリーズです。

こちらもコロナの状況を考慮して、計画的には行わず、たまたま訪れた土地に根付く商人文化を探検していきます。

私の大学時代の卒業論文近江商人についてのものだったので、近江商人との関わりについても発見できるとより面白いと思います。

そんなわけで、これからはゆっくりと無理のない範囲でやって行こうと思います。

 

さて、それでは、【時代旅シリーズ】で、今後行きたい弥生時代の遺跡を、予習を兼ねて挙げていきたいと思います!

①〜④は必ず行きたいと思うのですが、 ⑤⑥は無理せずに、機会があればという感じです。

 


候補地①大阪府

 

・池上曽根遺跡(大阪府弥生文化博物館)

弥生時代の中期を中心に栄えた集落。複数の集落が合併して巨大化したと考えられている。

また、日本で唯一の弥生時代に特化した博物館があり、弥生時代の学習に非常に良い場所になりそう。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/

 

 

 

候補地② 神奈川県

 

・大塚・歳勝土遺跡(横浜市歴史博物館)

竪穴式住居や方形周溝墓を復元整備した公園。

横浜市歴史博物館が併設してあり、弥生時代はもちろん、原始時代〜現代までの横浜の歴史の展示が、非常に充実しているとのこと。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp

 

 

 

候補地③ 福岡県

 

・須玖岡本遺跡

中国の漢王朝から、「漢委奴国王」の金印が授けられるほど強力だった、奴国の中心地とされる遺跡。

奴国の丘歴史資料館では、青銅器の製造現場が再現されているとのこと。

https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002286/1002288/1002293.html

 

板付遺跡

現在見つかっている、稲作の痕跡を持つものとしては最古の遺跡。

稲作だけではなく畜産や環壕、墓や服装品が見つかっている。また、日本最古の戦死者の遺骨も発見されており、いち早く大陸の文化やテクノロジーが入ってきて弥生時代の特徴(稲作や戦の発生のこと)を生み出した事が裏付けられる。

http://itazuke-iseki.kmtk4.net/index.html

 

 

 

候補地④ 奈良県

 

纏向遺跡

大規模な建造物跡や、農業ではなく建築に特化した町設計、紅花の花粉や、九州〜関東の広範囲の地域から持ち込まれた土器の発見、周辺の古墳群の規模から、邪馬台国の発祥の候補地の一つとなっている場所。

https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/makimuku/index.html

 

 

 

候補地⑤ 山口県

 

・土井ヶ浜遺跡

弥生人の人骨が見つかった場所(300体も!)

砂丘に死者を埋葬した結果と思われる。その発掘現場のレプリカは相当な迫力とのこと。

http://www.doigahama.jp

 

 

 

候補地⑥ 鳥取県島根県

 

・青谷上寺地遺跡

稲作だけでなく漁業や海を介しての港湾交易も盛んだったとのこと。

湿地帯のため、保存状態の良い状態で数々の木製品や化石が発見されている。弥生人の脳の化石や殺傷人骨などを含め他にはない特徴的な出土品を誇る遺跡。

https://www.pref.tottori.lg.jp/aoyakamijichi/

 

妻木晩田遺跡

竪穴式住居約450棟、掘立柱式住居510棟、墳丘墓39基が170ヘクタールの中で見つかっている。

広さで言えば吉野ヶ里遺跡の3倍、竪穴式住居の件数もほぼ同数と、圧倒的スケールを誇る。

この遺跡内を電動自転車を借りて廻る事ができる。資料館や体験コーナーもあり。

http://www.yonago-navi.jp/yonago/yodoe/sightseeing/mukibanda-remains/

 

荒神谷遺跡

銅剣の発見数は日本最多。また銅鐸や銅矛も数多く発見されている。

銅鐸は近畿、銅矛は九州と思われている中で、両方のまとまった数が発見される事は他ではない珍しい遺跡となっている。「古代出雲王国」との関連も噂される興味深い遺跡。

http://www.kojindani.jp