歴史食い倒れ紀行

以下の事を発信できればと思います。 ①歴史の中で人々が何を考え、どう行動したか。 ②変化の激しい現代社会だからこそ、変えてはいけない本質的なもの見つけること。 ③地方に隠れた、歴史や文化、魅力を発掘し発信すること。

【商人旅】~会津商人編①~ 会津の玄関口、白河を訪ねて

今回の旅は、福島県白河市会津若松市の2箇所の旅となりました。この旅について、以下の3章に分けて記事にまとめたいと思います。

 

第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて

第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学

第3章:今回の旅で出会った歴史スポット・グルメ(前編・後編)

 

そして、今回の記事は「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」にあたるわけですが、以下の流れで勧めたいと思います。

1.会津の歴史概要

2.白河の関

3.小峰城

 

1.会津の歴史概要

 まず、今回の旅についてお話しする前に、会津の歴史をざっくりとまとめてみました。

 

飛鳥・奈良時代

会津の地名が出てきた文献として最も古いものに、『常陸国風土記』があります。そこには、7世紀中ごろ有名な大化の改新で確立した律令制度によって成立した陸奥国の一部として、会津評(あいづのひょう)が設置されたと記載されています。この時期に会津地方は、本格的に大和朝廷の治めるところとなったと思われます。

 

平安時代

11世紀の前九年・後三年の役において、奥羽で強勢を誇り朝廷と敵対関係にあった安倍氏清原氏との戦に向かう源頼義源義家が、2代に渡って白河や会津を訪れ、戦勝祈願のために神社を造営したとの言い伝えがあります。

大和朝廷の支配がより北方に及ぶにつれて、陸奥国も北へと拡大していきます。その中で軍事拠点としての機能はさらに北に位置する多賀城へと移っていきますが、会津地方、特に白河は、古来より続く要衝としての歴史をこの先も歩んでいくことになります。

 12世紀に起きた源平合戦においては、当時、天台宗真言宗と肩を並べた法相宗慧日寺(えにちじ)会津地方随一の有力勢力でした。彼らが平氏側に味方したことにより、会津は平家の勢力下となりました。 

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古代における陸奥国の拡大

 

鎌倉・室町時代

鎌倉時代に入ると会津の地は源氏方の領するところとなり、源氏に味方して源平合戦奥州合戦で戦功を挙げた三浦氏に、会津の地が恩賞として与えられました。彼らは後に蘆名(あしな)氏を名乗るようになります。これが後の戦国の世に伊達氏と並び称される南陸奥の雄、蘆名氏の起源です。

蘆名氏は鎌倉・室町・戦国時代と約400年もの間、会津の地を治めます。室町時代には、黒川城(後の鶴ヶ城を築き、会津若松市の起源となります。

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黒川城(現在の名称は、鶴ヶ城または会津若松城

戦国時代

16世紀、戦国時代に登場した蘆名盛氏(あしなもりうじ)の頃に、蘆名氏は最盛期を迎えます。

南は常陸の佐竹氏、北は米沢の伊達氏と、これまた平安・鎌倉時代から続く名門かつ強力な戦国大名に挟まれながらも互角に渡り合い、蘆名家の最盛期を現出しました。

また、猪苗代の金山開発や、商業を育成し会津商人の起源を作るなど、内政にも手腕を発揮しました。蘆名盛氏は、現在の会津の原型を形作った功労者と言って差し支え無いでしょう。

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戦国時代の会津周辺のおおまかな勢力図

しかし、伊達政宗の登場によって、伊達氏は急速に力をつけ、この南奥羽のパワーバランスが大きく変わることになります。蘆名氏は、常陸の佐竹氏と同盟を結んで伊達政宗に対抗するも、ついに1589年の摺上原の戦い伊達政宗によって滅ぼされることとなりました。

更に、この僅か1年後には、豊臣秀吉が後北条家との戦を圧倒的優勢で進めており、全国統一を確固たるものとしつつありました。この秀吉には伊達政宗も屈服せざるを得ず、会津の地は、秀吉の随一の重臣である蒲生氏郷(がもううじさと)が治めることとなりました。蒲生氏郷は近江を治めた経験を生かして、黒川城を大改修して鶴ヶ城とし、城下町の整備会津の商業を強化に尽力する等、会津の地を豊かにする礎を築くこととなった人物です。

 

以上が、会津が歴史の表舞台に登場してから戦国時代に至るまでの歴史概要となります。

これ以降の歴史については、次回掲載予定の記事(第2章)で、会津商人に焦点を当てつつお話できればと思います。

 
2.白河の関
さて、ここからようやく今回の旅のお話をさせていただきたいと思います。まずは、会津はもとより、奥州の玄関口として、幾度も歴史の重要な通り道となった白河の関から旅をスタートしました。
白河の関は、JR東北本線もしくは東北新幹線新白河駅から車で20分のところにあります。

白河市街地から出るとすぐに、なだらかな山々を背景とした田園風景が現れますが、すぐに林の中を蛇行して抜ける道が始まります。その道には、深い緑のこんもりとした木々が、道に不揃いに道に競り出そうとしています。まるで、奥州の自然が、人間の侵入に抗っているかのように感じます。さらに進んで白河の関が近づくにつれ、林を道沿いに切り開いた土地に、ようやく少しずつ民家が現れるといった具合です。おそらく古代・中世における奥州は、このような生命力あふれる自然に阻まれ、交通・交易ルートは非常に限られていたのでしょう。

白河の関へ向かう道路、伊王野白川線(Google Map)

https://www.google.co.jp/maps/@37.0790188,140.2224426,3a,75y,216.63h,95.42t/data=!3m7!1e1!3m5!1sQHU0JDyIOn7v_K5FHAHSfA!2e0!6s%2F%2Fgeo3.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DQHU0JDyIOn7v_K5FHAHSfA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D145.03291%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656?hl=ja

 

白河の関に到着すると、そこは太古の歴史を感じる神秘的な世界でした。

関所としての白河の関は、平安時代太政官の記録にも残っており、7、8世紀には既に存在していたものと思われています。しかし、発掘調査からは縄文時代の土器や鉄器、家事工房跡も発見されており、現存する記録よりも遥か昔からこの地に人が住み拠点として機能していたことが示唆されています。

この場所には、前九年の役で活躍した源義家や、源平合戦に兄源頼朝の元に駆けつけようとする源義経、また奥州藤原氏を攻める源頼朝も、この地を訪れたとのことです。

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入口から既に神秘的な雰囲気に包まれている、白河の関

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入口から奥へと誘うような、緩やかな階段がみえる。

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階段を上がると、奥に白河神社がひっそりと佇んでいる。

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源義家が幌をかけて休息をとったといわれる楓。

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源義経が射立てたと伝えられる松(根株)。

このように白河の関は、自然に囲まれて、尚且つ神秘的なエネルギーを感じられる特別な場所でした。奥州の玄関口として、また政治的にも人心に訴えかけるに相応しい風格を持っていました。さぞや当時の奥州統治に必要不可欠な場所であったのだろうと、想像力を掻き立てられるには十分で、歴史ロマンを満喫できる場所でした。


3.小峰城
白河の歴史を訪ねる上で、もう1箇所欠かせないのが、日本100名城にも数えられる小峰城(こみねじょう)です!鎌倉時代に、奥州合戦での功績を認められた結城(ゆうき)氏が白河の地を与えられ、戦国時代まで統治しましたが。その間に14世紀ごろ建てられた城と言われています。

しかし、豊臣秀吉小田原征伐に参戦しなかったことから、結城氏は改易されます。代わりに蒲生氏郷会津と白河の地が与えられますが、息子の代にお家騒動で転封。その後に上杉景勝が領したものの関ヶ原の合戦で西軍に与したことから米沢に転封。再び蒲生氏が復帰するも嫡子に恵まれず断絶と、君主が頻繁に変わる土地でありました。

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太鼓門跡方面から見た小峰城

江戸時代に入って、白河藩が成立しますが、240年の間に7家もの藩主が入れ替わり立ち替わり統治するなど、相変わらず目まぐるしい君主歴を辿ります。しかし、白河を任される家は、親藩・譜代という徳川家にとって信頼できる大名家ばかりで、いかに江戸幕府にとって重要な土地であったかが伺えます。中でも初代藩主であった丹羽長重(にわながしげ)や、老中まで上り詰めた、松平定信(まつだいらさだのぶ)阿部正外(あべさだとう)など、名君も数多く生まれました。

 さてその中で、現存する小峰城や白河の基礎を作ったのは、築城の名手、丹羽長重です。小峰城の魅力は、何と言ってもこの石垣の美しさ!ただ美しいだけなく、隙間なく石垣を敷き詰めることにより、敵がよじ登る際に手をかける隙間を減らし防御面でも非常に理にかなっているとのこと。

併設している小峰城歴史館には、当時の城の内部を再現した大掛かりなCGドキュメンタリーが上映されており、見応え十分ですので、是非おすすめです!

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この美しい石垣!!!

白河藩は、戊辰戦争においても、その土地の戦略的重要性から、新政府軍と会津藩を中心とする旧幕府軍との間で激戦地となりました。のちに白河口の戦い」と呼ばれるこの戦いは、100日間にも及ぶ激戦の末、新政府軍側が勝利、小峰城は甚大な被害を受けました。

付近の山では多数の弾丸が飛び交う死闘が繰り広げられており、後に城の修復作業を行う際に伐採した杉材から弾丸が数多く見つかりました。その一部が床や柱に弾痕という形で残されており、戦闘の激しさを物語っています。

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床に使用されている杉材に残っていた弾痕

 

以上が、今回の記事、「第1章:会津の玄関口、白河を訪ねて」です。

このように白河は、地理的に非常に重要な土地であったため、数多くの歴史ドラマが秘められた場所でした。また、白河の関小峰城も、非常にコンパクトに整備されていて、それでいて当時の状態を今に伝える雰囲気や、解説も充実しています。非常に観光し易い街で充実した旅となりました。

次回記事は、いよいよ会津若松に到着します!「第2章:蒲生氏郷保科正之、そして藤樹学」もどうぞよろしくお願いいたします。

また、道中に白河ラーメンや福島県産の桃も食べたのですが、この感想については、「第3章:今回の旅で出会ったグルメ」に記載しようと思います!

 

余談:その時世界では

 

白河の関陸奥国の抑えとして重要な役割を担っていた8世紀、

世界ではイスラーム帝国(ウマイヤ朝)と唐王朝が全盛期を迎えていました。

イスラーム帝国は、第5代カリフ、アブドゥルマリクの元、アラビア語公用語化、アラブ貨幣の発行と、言語・経済の統一化が達成され、大いに発展しました。その支配領域は、西はウズベキスタン、東はイベリア半島まで跨る大帝国となりました。

唐王朝玄宗皇帝のもと、仏教改革や税制改革、節度使の導入など、開元の治という中国史上稀に見る安定期を実現します。首都の長安の人口は100万人に到達したと言われています。

この両大帝国の誕生が、西はローマ〜東の長安に至る商業ルート、シルクロードの安定化を実現し、世界規模の商業の活性化を促しました。

 

小峰城丹羽長秀によって現在に残るその姿を見せた17世期前半、

中国では明王朝が衰退し、後に清王朝を打ち立てる満州族の国、後金がその勢力を拡大していました。

また、中東ではトルコのオスマン帝国の全盛期で、現在のトルコ・バルカン半島・中東の大半・アラビア半島・エジプト・北アフリカがその支配下にありました。のちの歴史学者がパックス=オトマニカと呼ぶほど、平和な時代でした。

一方で、ヨーロッパはドイツで勃発した三十年戦争の戦乱の真っ只中で、「北方の獅子」こと、スウェーデングスタフ・アドルフが三兵戦術という当時画期的な戦術を編み出しスウェーデン王国の全盛期を築きました。因みにこの三兵戦術は約200年後に登場するフランス皇帝ナポレオンに多大な影響を与えることになります。

【番外編】今後の方針及び訪問予定

このご時世で旅行できない日々が続いていますね。もともと2、3ヶ月に一回は歴史旅をして、1年で1時代巡ろうと考えていましたが、現実的ではなくなっています。

それでも、歴史旅自体は、安全に配慮しつつ、軌道修正のうえ可能な範囲でやって行こうと思います!

今後の方針としては、2シリーズに分けてブログを書いていきたいと思います。

 

一つは、【時代旅シリーズ】。

これは、今までの方針である、日本史を弥生時代から1時代ずつ辿っていく旅です。ただし、旅行は今後コロナの状況に左右される事から、1年1時代のペース縛りは諦めます。

その代わり、予め1時代を語る上で行きたい場所を決めておいて、可能な範囲でゆっくりと巡っていく方針にします。

後ほど、今後の訪問候補地を紹介します。


二つ目は、【商人旅シリーズ】。

決して商人になって地方巡業するわけではなく(笑)、日本各地の商人の歴史を探索するシリーズです。

こちらもコロナの状況を考慮して、計画的には行わず、たまたま訪れた土地に根付く商人文化を探検していきます。

私の大学時代の卒業論文近江商人についてのものだったので、近江商人との関わりについても発見できるとより面白いと思います。

そんなわけで、これからはゆっくりと無理のない範囲でやって行こうと思います。

 

さて、それでは、【時代旅シリーズ】で、今後行きたい弥生時代の遺跡を、予習を兼ねて挙げていきたいと思います!

①〜④は必ず行きたいと思うのですが、 ⑤⑥は無理せずに、機会があればという感じです。

 


候補地①大阪府

 

・池上曽根遺跡(大阪府弥生文化博物館)

弥生時代の中期を中心に栄えた集落。複数の集落が合併して巨大化したと考えられている。

また、日本で唯一の弥生時代に特化した博物館があり、弥生時代の学習に非常に良い場所になりそう。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/

 

 

 

候補地② 神奈川県

 

・大塚・歳勝土遺跡(横浜市歴史博物館)

竪穴式住居や方形周溝墓を復元整備した公園。

横浜市歴史博物館が併設してあり、弥生時代はもちろん、原始時代〜現代までの横浜の歴史の展示が、非常に充実しているとのこと。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp

 

 

 

候補地③ 福岡県

 

・須玖岡本遺跡

中国の漢王朝から、「漢委奴国王」の金印が授けられるほど強力だった、奴国の中心地とされる遺跡。

奴国の丘歴史資料館では、青銅器の製造現場が再現されているとのこと。

https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002286/1002288/1002293.html

 

板付遺跡

現在見つかっている、稲作の痕跡を持つものとしては最古の遺跡。

稲作だけではなく畜産や環壕、墓や服装品が見つかっている。また、日本最古の戦死者の遺骨も発見されており、いち早く大陸の文化やテクノロジーが入ってきて弥生時代の特徴(稲作や戦の発生のこと)を生み出した事が裏付けられる。

http://itazuke-iseki.kmtk4.net/index.html

 

 

 

候補地④ 奈良県

 

纏向遺跡

大規模な建造物跡や、農業ではなく建築に特化した町設計、紅花の花粉や、九州〜関東の広範囲の地域から持ち込まれた土器の発見、周辺の古墳群の規模から、邪馬台国の発祥の候補地の一つとなっている場所。

https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/makimuku/index.html

 

 

 

候補地⑤ 山口県

 

・土井ヶ浜遺跡

弥生人の人骨が見つかった場所(300体も!)

砂丘に死者を埋葬した結果と思われる。その発掘現場のレプリカは相当な迫力とのこと。

http://www.doigahama.jp

 

 

 

候補地⑥ 鳥取県島根県

 

・青谷上寺地遺跡

稲作だけでなく漁業や海を介しての港湾交易も盛んだったとのこと。

湿地帯のため、保存状態の良い状態で数々の木製品や化石が発見されている。弥生人の脳の化石や殺傷人骨などを含め他にはない特徴的な出土品を誇る遺跡。

https://www.pref.tottori.lg.jp/aoyakamijichi/

 

妻木晩田遺跡

竪穴式住居約450棟、掘立柱式住居510棟、墳丘墓39基が170ヘクタールの中で見つかっている。

広さで言えば吉野ヶ里遺跡の3倍、竪穴式住居の件数もほぼ同数と、圧倒的スケールを誇る。

この遺跡内を電動自転車を借りて廻る事ができる。資料館や体験コーナーもあり。

http://www.yonago-navi.jp/yonago/yodoe/sightseeing/mukibanda-remains/

 

荒神谷遺跡

銅剣の発見数は日本最多。また銅鐸や銅矛も数多く発見されている。

銅鐸は近畿、銅矛は九州と思われている中で、両方のまとまった数が発見される事は他ではない珍しい遺跡となっている。「古代出雲王国」との関連も噂される興味深い遺跡。

http://www.kojindani.jp

 

【時代旅】~弥生時代編②~三殿台遺跡


こんにちは!

今回の旅行先は神奈川県横浜市磯子区岡村にある、三殿台遺跡(さんとのだいいせき)です!

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/

 

1.今回の降車駅(地下鉄ブルーライン弘明寺駅)2.三殿台遺跡概要 3.三殿台遺跡の発見 4.三殿台遺跡は三度付け(縄文・弥生・古墳) 5.ゆずっこの聖地三殿台6.今回のグルメ(とんかつ美とんさくらい岡村店)

の順にまとめます。

 

1.今回の降車駅(地下鉄ブルーライン弘明寺駅

さて、三殿台遺跡へは、地下鉄ブルーライン横浜駅から電車で14分、弘明寺(ぐみょうじ)駅で降ります。弘明寺奈良時代行基が建立、鎌倉時代空海も発展に寄与しています。鎌倉~江戸時代の時の権力者との強いパイプがあり、坂東三十三観音にも数えられる程の由緒ある寺院とのこと。とても興味深い場所ですが、これはまた別の機会に。

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地下鉄ブルーライン弘明寺駅

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弘明寺商店街。弘明寺門前町が商店街に発展し、戦時は空襲を免れ、戦後ヤミ市ができ横浜市電の終着点でもあったので賑わいました。レトロな雰囲気があり、CMロケ地に使われることも多いそう。

2.三殿台遺跡
弘明寺駅からタクシーで10分ほどのところに、三殿台遺跡があります。この三殿台遺跡、徒歩でも30分ほどで行けますが、標高55メートルの場所にあるので、行かれる際はちょっとしたハイキングのつもりで行ってください。笑 バスからの場合は、JR根岸線根岸駅からバスで15分ほどかけて天神前バス停で降車すれば、徒歩10分ほどで到着します。

入口から入っていくと、公園のような広場にいきなり遺跡の遺構群が姿を現します。

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三殿台遺跡入口。入館料は無料です!

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階段を上がるとすぐに竪穴式住居の遺構群と保護塔が見えます。

 

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白っぽい杭は古墳時代、茶色の杭は古墳時代になります。また、少しですが縄文時代のものを表す赤い杭もあります。(見えづらい・・けど、一目で見分ける方法もあって、それはこの記事を途中まで読んでいただければわかります!笑)

保護棟の中は、発掘当時の遺構がむき出しのまま保存されています。中には入れませんが、吉野ケ里遺跡の記事で紹介した北墳丘墓を彷彿とさせるスケール!発掘当時の様子がしっかり残されています。

また、窓にはパテが塗りこんであり、雨や風などによる風化を防止しています。また、定期的に業者さんが中に入ってカビ等が発生しないよう、保護するためのメンテナンスを行っているとのことです。

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保護棟内部

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保護棟の見取り図と保存作業の様子(横浜市三殿台考古館ご提供)

さらに奥に進むと、竪穴式住居が3軒復元されています。縄文・弥生・古墳時代の遺構が見つかっているため、それぞれの特徴を比較できるよう、対比しながら見学すると面白いです!!

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竪穴式住居の復元展示。左から、弥生・縄文・古墳時代です。

4.三殿台遺跡の発見

三殿台遺跡は明治30年にイノシシの牙でできた勾玉を医者が発見したことが発端です。他にも土器なども多数出土していたことから、それなりの規模の遺跡があるであろうことは認識されていたようです。昭和36年に隣接する岡村小学校の高地拡張予定地となったことがきっかけで、遺跡全体の本格的な発掘調査が行われました。

 

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昭和36年の発掘調査の様子。横浜市立大学國學院大學立正大学日本大学らが中心となって行われました。与えられた期間は小学校の夏休みのみという短期間だったため、重機を活用したり、研究者のみならず、中高大学生、市民らのべ5,000人が携わって急ピッチで発掘作業が進められました。

すると、驚くことに、縄文時代から弥生時代を経て古墳時代までの、3つの時代の竪穴式住居の遺構が複雑に重なり合うようにして、270件も発見されました!縄文後期に断絶があったとみられていますが、紀元前2500年~紀元後500年の約3000年間もの間、人々が暮らしていたことになります。

前回の記事で紹介した吉野ケ里遺跡は約583,000㎡の中に竪穴式住居跡は450件、これと比較すると三殿台遺跡の竪穴住居は約10,000㎡に約270件、吉野ケ里遺跡の約35倍の密度!この三殿台遺跡が、如何に考古学的に貴重な場所であるかが分かると思います。

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発掘当時の三殿台遺跡。(昭和36年)

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現在の三殿台遺跡。(令和2年)  調査後に遺構の風化を防ぐため、中央の保護棟(赤い屋根の建物)を除いて埋め戻しています。

4.三殿台遺跡は三度付け(縄文・弥生・古墳)
当ブログでは今年(2020年)は、弥生時代についてメインに記述していますが、三殿台遺跡の魅力は何といっても、縄文・弥生・古墳に渡る非常に豊富な考古資料が見ることができること!今回は、“一度来て三度おいしい三殿台”(話:横浜市三殿台考古館館長)で実際に展示されている出土品を、3時代に分けて紹介します。

縄文時代

三殿台には約4,500年前から人が住み始めたとのことです。当時の食生活は、狩猟・漁撈・網漁・採集など身の回りにある自然だけで賄う小規模なムラでした。 

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縄文時代の遺構の分布図。(横浜市三殿台考古館ご提供)  遺跡外縁部に貝塚(紫)・内縁部に竪穴式住居(赤・黄)の遺構が見つかっています。

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縄文時代の竪穴式住居。この時代は一般的に、6~8本の柱を円を描くように建てることが主流のため、遺構の平面形も円形になります。

当時は氷河期が終わり、温暖化が進んだことで南極・北極の氷が溶けだし、現在よりも海水面が5~6m高いところまで上昇する、「縄文海進」が起こりました。このことは、貝などの海産物の採集を容易にし、居住地域は水はけがよく水害に遭いにくい高台に集まるという、縄文ライフを生み出したと考えられています。そう考えると、高台になりつつも海に囲まれた半島地形にある、三殿台遺跡のロケーションは当時ではさぞや一等地だったことでしょう!

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縄文海進の図。当時は降車駅の弘明寺はもちろん関内や桜木町も海の下でした。

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縄文時代の出土品。狩猟につかわれたと思われる矢じりが見つかっています。

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縄文時代の出土品。釣り針や網漁に使われたウキなど、既に現代に通じる技術を伺わせる道具が見つかっています。

弥生時代

当ブログの今年のテーマは弥生時代ですので、やはりこの時代を紹介しないわけにはいきません!

三殿台遺跡には稲作金属器など弥生時代の生活を示唆する品々も多く出土しています。村の規模も大きくなり、この一帯では中心的な村だったのでは、と考えられています。

また、興味深く感じたこととしては、三殿台遺跡には環濠の跡が見られないということです。前回の記事でも触れましたが、弥生時代は戦が多かった時代なので、多くの遺跡で環濠跡が見つかっています。吉野ケ里遺跡を訪れた際には、非常に大規模な環濠跡を目にしました。三殿台遺跡にはこの環濠跡が見つからないことがとても意外に感じます。これはあくまで個人的な推測ですが、もしかしたら、三殿台遺跡はその急な台地や、当時の海に囲まれるような半島的な地形のために、特別な防御施設が必要なかったのかもしれません。或いは、この地域が戦のないとても平和な土地だったのかもしれません。

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弥生時代の遺跡の分布。(横浜市三殿台考古館ご提供)  縄文時代に比べると竪穴式住居の平面形は丸みを帯びた四角形に代わってきています。

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弥生時代の竪穴式住居。鉄器の導入により木材加工が可能となります。板材を作って、更に穴を空けたり斜めに切ったりと工夫の幅が広がります。こうした建築技術の発達から基本的な柱の本数は4本となります。平面形の形も縄文時代の円形に比べると、丸みを帯びた四角形への変化が見られます。

弥生時代は何といっても稲作の普及です。やはり三殿台遺跡も、石包丁や、土器についた米の痕跡など、米を食料としていた痕跡が色濃く残されています。一方で水田の跡がないので、三殿台から降りて近場の平地で稲作業を行っていたのでは、と想像されています。

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弥生時代の出土品。石包丁や有角石斧など弥生時代の特徴的な道具が見られます。

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弥生時代の出土品。左はモミ痕のある土器の底と炭化米。右は青銅やガラスの装飾品。

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弥生時代の土器

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保護棟の内部は、弥生時代の竪穴住居跡が中心。中央左下に赤くなっている部分は火を使った痕跡で、炉があった場所とのこと。

古墳時代

古墳時代になると竪穴式住居の奥に粘土でできたかまどが作られるようになります。土器の形もかまどでの調理を前提とした縦長の形をしているものが多いです。また鉄器もより精密な加工が施されており、農業や食生活において著しい発展を見て取ることができます。

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古墳時代の竪穴式住居の遺構。(横浜市三殿台考古館ご提供)  弥生時代に比べてほぼ四角に近い平面形となています。

 

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古墳時代の竪穴式住居。平面形の四角形化がさらに進み、外からでもわかるほどです。この時代になると、かまどが一家に一台あったらしいです!

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古墳時代の土器の出土品。米をかまどで調理するのに適した構造をしています。下の段(水色)に水を張り、上の段に米を入れます。下からかまどの火を炊くことで、水蒸気を起こし蒸していました。

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古墳時代の鉄製農工具。弥生時代以前からの格段の技術の発展がみられます。

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耳飾り。発見当初は金箔がついているのがよく見えたそうです。装飾品にも細かい技術と文化の発達が見られます。

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紡錘車。これで繊維を撚って糸をつくります。吉野ケ里遺跡では弥生時代に既に普及していたようですが、こちらでは古墳時代のものが見つかっています。関東と九州では大陸からの技術の伝播にタイムラグがあったのかもしれません。

5.ゆずっこの聖地、三殿台

三殿台遺跡はJ-POPミュージシャンの”ゆず”の聖地としてしられています。その理由は、この遺跡の発見・発掘に深い関わりのある岡村小学校が、”ゆず”のふたり北川悠仁岩沢厚治の母校だからです。三殿台遺跡にも来たことがあるそうで、サインと写真が飾ってあります。また、ゆずの5thアルバム『すみれ』のブックレットにはこの2人が三殿台遺跡で撮影した写真もあります。

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”ゆず”の2人が三殿台遺跡に来た時の写真・サインと、5thアルバム「すみれ」のブックレット

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ゆずの2人の母校である岡村小学校は、三殿台遺跡と目と鼻の先の距離にあります!

6.今回のグルメ(とんかつ美とんさくらい岡村店)

今回のグルメは、三殿台遺跡にお伺いした際に考古館の館長様からご紹介いただいた、とんかつ美とんさくらい 岡村店で昼食をとることにしました!!!

三殿台遺跡から、岡村小学校の前を通り10分ほど坂を下っていくと、そのとんかつ屋さんは見えてきます。個性的な店構えは、店長のこだわりの技がキレまくっているお店の予感!

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とんかつ美とんさくらい岡村店さん!

入ってみると、そこかしこにサインサインまたサイン!有名なミュージシャンや声優さん、スポーツ選手に芸能人、、、間違いなく、超有名店!!

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店内はものすごいサインの量!!

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有名スポーツ選手や声優、芸能人の方々のサインがたくさん!


早速、看板メニューの釜焼きロースかつ定食の“中”を注文します。(1440円 2020年1月現在)

さぁ、じっくり味わうぞ!と、とんかつにかぶりつきます!その瞬間、畳み掛けるような美味しさに感動しました!

第一の衝撃は衣!未だかつてないほどサクサクの衣!釜焼きなのでピザ生地を思い出すようなこんがりとした香ばしい風味!

第二の衝撃は、衣とお肉の間の空洞!よくあるとんかつは衣とお肉がコッテリな肉脂でくっついているのですが、このとんかつはそれが無いので意表を突かれます。

第三の衝撃は、ジューシーなお肉!と言ってはもはや月並みな表現なのですが、第二の衝撃で意表を突かれた直後に来る、石窯の高温で余分な脂をしっかり落として焼かれた、お肉の純粋な香りに完全にノックアウトされました。( ;∀;)

このとんかつを、これまたこだわりの2種類のソースとお塩で味を変えながら、じっくり堪能させていただくことができます。

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看板メニューの窯焼きとんかつ定食!

 

そして、ここで、本当に幸運にも、さくらいさんの店長、堀内強美さんに様々なお話を伺うことができました。

宮崎県ご出身で、18歳の時に食肉店に入社され、25、6歳でとんかつさくらい店を開業されます。48ー51歳の歳に、オランダ国際食肉加工品コンテストでポークジャーキーや生ハムなど数々の分野で金賞を受賞されています。

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受賞されたコンテストの賞状やトロフィーの数々!

そんな中、さくらい店の常連だったあるミュージシャンが、病気で脂が取れないため
とんかつが食べられなくなってしまったと聞いて、石窯の高温で焼くことで肉の脂を落しつつ、肉の旨味を引き出す調理上を考案されました。それが「釜焼きとんかつ」の始まりだそうです。

また、小学校で卵アレルギーでとんかつが食べられない子がいると聞くと、衣作りに欠かせないバッター液に、卵の代わりに、えのきを使用するという画期的な調理法を考案されました。この、えのきを使用したバッター液は、堀内さんがガンで余命宣告を受けて入院している最中に偶然読んだ、きのこの本から着想されたとの事です。それまで失意の最中にいた堀内さんですが、こんな所で死ねない、まだやるべき事がある!と再び立ち上がり、なんとガンも克服、えのきを使用したバッター液を作り上げ、特許ももうすぐ取得できるとの事です。

私が、「10年かけて、日本中旅しながら、日本の歴史を辿るブログをつくりたい」という話をしたら、堀内さんは、「それは素晴らしいことです。私も10年食肉について学んで一流になれたと思っています。あなたも10年間続ければ、きっと実を結んで新しい世界が見えるでしょう。」と仰ってくださいました。その道の一流の職人の方が、私のような駆け出しのブロガーにこんな言葉をかけてくださること自体、本当に感動的でうれしいことでした。泣

堀内さんは、横浜市の市民の生活・文化に寄与する優れた技能職者として「横浜マイスター」に認定されています!詳細は下記のリンクから見れます!

堀内強美マイスター(食肉加工・調理師) 横浜市

 

また、とんかつ美とんさくらいさんの美豚浜ジャーキーが、”横浜が選んだ横浜ブランド、横浜001”に選ばれており、楽天市場からも手に入ります!

↓のリンクからチェックしてみてください!

美豚ハマジャーキー

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美豚ハマジャーキー 540円!

最後に、このような、駆け出しの若輩ブロガーに、とても親切にご案内いただき、温かくアドバイスいただきました、三殿台遺跡、とんかつ美とんさくらいの皆様のおかげで、想い出に残る素敵な旅になりました。改めて感謝の言葉を述べさせていただき、今回の記事の締めとさせていただきたいと思います。

 

余談:その時世界では

三殿台遺跡の縄文期(紀元前2000年前後)、小アジア(現在のトルコ)に鉄器の技術を持ったヒッタイト王国が一大強国を築き、中東でエジプトと凌ぎを削っていました。この鉄器の技術がユーラシアを横断して、弥生時代後期(紀元前200頃)年前後に日本に到達することになります。

三殿台遺跡の弥生期(0世紀前後)には、最盛期を迎えつつあったローマ帝国の、支配下にあったエルサレムで、イエスが処刑され、キリスト教の発祥となりました。

三殿台遺跡の古墳期(5世紀前後)には、中国の三国時代を統一した晋王朝が、統一後僅か50年で、北方民族の侵入を受けて南に逃れ、130年にも及ぶ中国史上屈指の混迷の時代、南北朝(五胡十六国)時代の幕開けとなりました。ヨーロッパでもゲルマン民族大移動で衰退したローマ帝国が東西に分裂。程なくして西ローマ帝国は滅亡。この様に世界史としては非常に荒れた時代となっていました。

【時代旅】~弥生時代編①~ 吉野ケ里遺跡

 

あけましておめでとうございます。

歴史食い倒れ紀行、宣言通り弥生時代からスタートしたいと思います。

記念すべき第1回目は、吉野ケ里遺跡!

1.今回の降車駅(JR久留米駅)2.吉野ケ里遺跡の探索 3.今回のグルメ(豚骨ラーメン・菱焼酎)

の順にまとめます。

 

1.今回の降車駅(JR久留米駅)

最寄り駅はJR吉野ヶ里公園駅からすぐなのですが(こちらからの行き方をおススメします。笑)、別用があったのでJR久留米駅からJRバスで50分ほどかけて向かいます。

久留米は、田中久重(通称儀右衛門)の生誕の地とのことで、立派なモニュメントがありました。なんでも、東洋のエジソンと呼ばるほどの偉業を残した方らしいですが、このお話はまた別の機会に。

あと、久留米は豚骨ラーメンの発祥の地らしいです!今回のグルメ候補ですね♪

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JR久留米駅改札前 ほとめき広場

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JR久留米駅前からくり儀右衛門モニュメント

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久留米は豚骨ラーメンの発祥の地だったそうな。

2.吉野ケ里遺跡の探索

いよいよ、到着。入口から5分ほど歩くと、歴史公園センターと券売所があります。

大人(15歳以上)は460円。中学生以下は無料!駐車料金は310円。

(2020年1月現在)

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吉野ケ里歴史公園入口

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歴史公園センター(東口)

歴史公園センターから天の浮橋を通って公園に入ると、環濠入口広場になります。

①環濠入口広場→②南内郭→③北内郭→④甕棺墓列→⑤北墳丘墓→⑥弥生くらし館(環濠入口広場付近)というコースをとります。

地図は下記のリンクからご確認ください。

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=3

①環濠入口広場

吉野ケ里の一帯に「ムラ」ができ始めたのは、紀元前5~2世紀ごろ(弥生時代前期)と言われています。吉野ケ里遺跡の特徴としてあげられる重要ポイントの一つとして環濠があります。

環濠とは、居住地域を囲むように土を掘って作られた深い堀の事で、外敵や野生動物の侵入を防ぐ目的があったと考えられています。更に、吉野ヶ里遺跡に於いては、この環濠の土手に斜め向きの穴が空いていた事から、木の棒を外向きに刺して防御機能を強化する、逆茂木と呼ばれる設備もあったと考えられています。

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環濠入口

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逆茂木

吉野ケ里遺跡のこうした遺構からは、戦の気配を感じることができます。一般的に、弥生時代は戦の多かった時代と言われています。その主な理由として挙げられるものは、稲作の普及です。

稲作は縄文時代後期に、中国大陸や朝鮮半島から入ってきました。弥生時代に於いてこの技術が広まるにつれ、それまでは狩猟や木の実の採集が主だった移住生活が、農耕を主とする定住生活に変化しました。これが「ムラ」の起源です。この「ムラ」の中で農業の知識に優れたものが上に立つことで権力者が生まれ、更には、安定した収穫がある「ムラ」が、周囲の「ムラ」を従えることで「クニ」に成長していきます。(吉野ケ里の集落は5,6個の集落を従えていたと考えられており、5,000~6,000人の人口を支配下に置いていたと考えられています。)

この過程では多くの争いがあったと考えられ、こうした弥生時代縄文時代に比べ、格段に戦の多かった時代であろうと推測されています。

 

②南内郭

南内郭に入ると、物見櫓竪穴住居が姿を見せ、いよいよ弥生の世界にタイムスリップしたような風景になってきました♪

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南内郭入口

物見櫓は、別の遺跡で発掘された土器に描かれていた絵を参考に復元されたとのことですが、吉野ケ里遺跡で発見された遺構の柱の跡太さから、12mもの高さのものが展示されています。

竪穴式住居は、形式としては縄文時代のものが、ほぼそのまま踏襲されていたと考えられています。地面を1mほど掘り下げた上に、柱や葦で作った屋根などを組み立てて作っています。

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物見櫓と竪穴式住居

吉野ケ里遺跡では、王や支配階層の人たちの住まいがこの内郭に集中していたと考えられています。
当時行われていたと思われる暮らしぶりや道具の数々が、人形や復元された模型を使ってリアルに再現されていました。

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竪穴式住居に展示されている人形

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竪穴式住居に展示されている、儀式に使われていたという道具

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石包丁。これで稲穂を刈り取ったようです。半月型をしていますが、出土した地域により傾向があり、九州は丸側に、関西は直線側に刃があるそうです。

③北内郭

北内郭は、この地域一帯を取り仕切るうえで、最も重要な役割を果たしていたと考えられています。外から中が見えないように、板状の柵が隙間なく並べてあります。中に入ると、主祭殿高床建築が見られます。

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北内郭入口。他のセクションとは異なる、どことなく神聖な雰囲気。

高床建築は、一般には倉庫や儀式の場所として使用されていたと考えられていますが、主祭殿の直ぐ傍にあったものは、普段人前に姿を見せない聖職者の住居だったと考えられています。

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高床建築。倉庫や聖職者の住居、祭殿に使われたと考えられています。

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聖職者の住居。古代中国や少し後の時代の日本の文献を元に推測しているそうです。

主祭殿は「北にある墳丘墓(王の墓)と普賢岳を結ぶ南北の線」と、「冬至の日入と夏至の日出を結んだ東西の線」が重なる場所に位置し、重要な行事や、稲刈りなどの農業の日程を決める等の決定を下していたと思われます。主祭殿に入ると、当時の祀りの様子が再現されています。

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主祭殿

この区画には他にも複数の祀りのための施設が復元されています。案内のボランティアをされているおじさんのお話では、これらの建物の東西南北の配置は、中国の当時の形式と酷似していて、この地域は大陸文化の影響が非常に濃かったことを示唆しているとのことです。

これほどまでに繁栄した吉野ケ里の集落も、古墳時代になると支配者としての機能を突如失ったとのことです。おそらく他の強力なクニの傘下に降ったのでしょうか?それとも他のクニを従えながら拡大する中で、遷都したのでしょうか?邪馬台国と何かが関係あるのでしょうか??何が起きたのかを示す資料は全くなく、現在でも解明されていないとのことです。こういったミステリーもまた、想像を掻き立てられる歴史のロマンですね♪

 

④甕棺墓列

吉野ケ里遺跡にあったと考えられるムラの中で、人々の日常生活は北内郭以南の場所にありました。

北内郭以北に位置する、甕棺墓列や北墳丘墓は全てお墓で、当時の人々にとって神聖な区画だったと考えられています。

まず、北内郭から出てすぐに広がっている甕棺墓列は、一般庶民のお墓だと考えられています。土器が綺麗に残っている甕棺は、酸性の土壌に分解される事がなく埋葬された骨が綺麗に残っており、貴重な考古学資料となっています。頭部の無いものや刀傷の多い骨も多く、「戦の多い弥生時代」を裏付けるものとなっています。また、規則正しく整然と並べられているその光景からは、当時の人々が死生についても深い考えを持っていたのでは、と考えさせられるものがあります。甕棺墓列には南の居住地域からだけでなく、吉野ヶ里遺跡の外からの道もあったことが確認されており、周囲から多くの人々が参拝に訪れたのではと考えられています。

 

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甕棺墓列。甕棺は九州北部によく見られる特徴とのこと。土器の中に身を折り曲げて埋葬されています。

⑤北墳丘墓

そのまま北に5分ほど歩くと次に見えてくるのは、北墳丘墓。ここは、盛り土して作られた人工の丘になっています。戦国時代には山城として使われた経緯もあって、地元の人も近年までそこに弥生時代のお墓があるとは思っていなかったようです。

1970年代に工業団地建設計画の過程で一帯から多くの甕棺が見つかった事がきっかけに、本格的な調査が行われました。盛土には様々な種類の土を幾重にも重ねて塗り固められた、弥生時代としては他に類を見ない高度な建築技術が用いられ、中国大陸からの技術の輸入があったと考えられています。

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北墳丘墓は、内部を中空にした状態で展示されています。まるで兵馬俑を見ているかのような迫力!この遺構を展示の状態で維持するためには、建築に重要な基礎を築くことができないため、オクタゴン構造とそれに伴い発生する張力に強いプレストレスト・コンクリートという特殊技術が用いられています。また、空調設備も完備してあり、湿度・温度が常に管理されています。

 



墳丘墓の中からは、多くの甕棺が見つかっています。特に身分の高い人が埋葬されたと考えられていて、有柄銅剣や、世界でも類を見ない程の数のガラス管玉等、副葬品と見られる貴重な遺産が沢山見つかっています。

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有柄銅剣

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ガラス管玉

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特に豪華な甕棺には数多くの副葬品が供えられていたり、内側に赤い塗料が塗られていました。この塗料は朱丹とも言われ、硫化水銀でできた水銀朱です。水銀は熱を加えると固体→液体→固体→液体と姿を変えることから、中国では輪廻転生・若返り・不老不死の薬であると信じられていました。秦の始皇帝が不老不死を追い求めて水銀を薬として摂取したために寿命を縮めたといわれています。この甕棺の水銀朱にもその文化の影響を見ることができます。

⑥弥生くらし館

ここでは弥生時代の生活の体験ができます。

匂玉づくり:200-250円

火起こし:100円

土笛づくり:100円

今回は、火起こし体験をやってみました!

木の板に、専用の道具を使いながら木の棒をグリグリと押し付けて回して、生まれる木屑が摩擦熱を持って煙を上げるまで続けます。

(ここに至るまで、小・中学生に混じって20-30分ひたすら必死に木の棒を回し続けました。笑 翌日しっかり筋肉痛になりました。( ;∀;))

木屑が煙を上げ始めたら、麻ひもに木屑をかけて息を吹き込むと勢いよく燃え上がりました!

現代は火を起こすことはこんな重労働にはならないし、着火時の火の勢いは危うく手が火傷しかけるほどで、自然の力を生かすことは本来これほど難しいことであることを再認識しました。今の文明・社会・生活は、過去の人々の生活の知恵がいかに蓄積されてできているものであるかを考えると、感慨深いものがあります。

写真撮る余裕がなかったので、興味のある方は是非、youtubeで「吉野ヶ里遺跡 火起こし」で検索してみてください。体験動画を載せてる人が沢山います。(`_´)ゞ笑

 

3.今回のグルメ

今回の紹介するグルメは、大久ラーメン肥前佐賀 神埼菱焼酎です!

大久ラーメン吉野ヶ里遺跡からJR吉野ケ里公園駅までの道中にある豚骨ラーメンのお店。14時に行ってもなお、お店の前に行列が出来ていて駐車場も満席!これはアタリのお店の予感!

ラーメンは500円、ラーメンセットは800円、ギョーザは350円!とっても安い!

今回はラーメン+替え玉、ギョーザを注文しました!ラーメンは美味しい豚骨独特の臭みやコクもしっかりありながら、スープは滑らかで後味もスッキリ!表面に所々浮かぶ泡が、クリーミーさを物語っています。ここ最近で食べた豚骨ラーメンの中で一番美味しい!

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大久ラーメン、地元でも大人気だそうです!

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ここ最近で食べた一番おいしい豚骨ラーメン!!


肥前佐賀 神埼菱焼酎は、お土産屋さんで発見!福岡国税局の酒類鑑評会で「金賞」を受賞したとのこと。材料の菱の生産量の関係で年間2000本程度しか作られない希少なお酒だそう。地元の菱の実米麹脊振山系の伏流水を使った焼酎だそうです。焼酎ならではのパンチがありながら、菱と米糀の、日本酒にも似た甘い香りがあります!私は日本酒は好きで普段からよく飲む一方で焼酎はあまり飲み慣れていないのですが、この焼酎はすごく飲みやすいです!

 

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肥前佐賀 神崎菱焼酎!!

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(あとがき)

 

以上、第一回の記事でした!

吉野ヶ里遺跡には、今回行った場所のほかにも、村や市場の復元ゾーンや、原生林の再現を目指した古代植物館等、面白そうな場所がまだまだ多くあるので、折を見てまた行きたいと思います。

記事の書き方ですが、最寄駅から実際に回った場所を順番に書いていった事で、若干回りくどくなったかと思います。旅行記調で書きたいと思っているので、敢えてダラダラと書いているところもありますが、長すぎるようであれば、前編後編のように分ける事も考えたいと思います!

佐賀 唐津・呼子・有田・伊万里 (まっぷるマガジン)

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感想(1件)


余談:その時世界では
吉野ヶ里遺跡が栄えていた時代、世界史では、紀元前5世紀にアケメネス朝ペルシャvsスパルタ・アテネペルシア戦争、前4世紀にアレクサンダー大王帝国、前3世紀に秦の始皇帝が中国を統一していた、そんな時代です。

 

 

 

はじめまして

はじめまして。

Inagazyと申します。まずは自己紹介を兼ねて、初投稿です♪

普段は会社員として勤務しているアラサー男です。笑

このブログでは、歴史を訪ねて旅をしつつ、美味しい食べ物に舌鼓を打つ、そんな私のライフワークを発信していきたいと思います。(^^)/

まずは、日本という国がその姿を徐々に形作り始めた、弥生時代から順番に時代を進みながら、半ば思い付きで歴史的スポットを巡っていきます♪

無理のない範囲でコツコツと進めていきますので、読んで下さる方々の旅の一助になればよいと思いますし、感想や、こんな場所がいいよ等のおすすめ情報などもいただけますと幸甚です。m(__)m

 

それでは、今後とも何卒、よろしくお願いいたします。

 

おわり